2020年06月30日

日本人の “心” ありがとう!..


   ありがとう  って意外にこの言葉を相手に対して口にする機会は少ない ... 。






  此処年限られた人達に守られて生きてる。だからつい甘えてしまう。ものすごく反省してる。昔の自分なら考えられない “事” なんだけど現実です。最近長兄 ( 69歳 ) が癌で手術して自宅で闘病生活をしている。15`も痩せて電話口で擦れ声で、「 コロナがやばいから 」 と見舞いを拒否。一目でも顔を拝みたい弟としては寂しい限りだ ... 。

  多分だけど信心する前だったら、「 アッ〜ア兄貴なら閻魔も逃げ出すよ! 」 なんて冗談飛ばして笑ってただろう。今年住み替え ( 9月予定 ) の件も関係者各位にはから感謝してる。何事も無く穏やかに住み替えが済めばとから願ってる。心機一転60歳代からだって再起出来るんだと世間に示す為にも ... 。

  暴力は絶対に拒否。握手 ( コロナ禍後 ) は絶対にアリ。この行為の連鎖がやがて握手だけになったら素敵な世界が創造出来る筈。その日が来るまで続けようよ、「 ありがとう! 」 を。一日一回 “ありがとう” って言ってみようよ。恥かしくなんか無いよ。その日言う相手がいなかったらの向こうに居る自分に向って、“ありがとう” って言おうと不肖小生も思います
 。。。



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2020年06月29日

仏教史観を語る!..


  仏道修行上の師、池田大作先生SGI ( 創価学会インターナショナル ) 会長の言葉は不滅です ... 。



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  第9回教学部大会記念講演

 

  池田会長仏教史観を語る “人間のため” こそ仏法の根本精神



  本日の教学部大会、まことにおめでとうございます。また、お寒いところ、大変にご苦労さまでございます。私はこの席上におきまして、若干、仏教史を俯瞰しつつ、日ごろ考えてきましたことを、懇談的に話させていただきたいと思います。

 、まず、私は宗教革命ということに関連しまして、仏教というものの本来の精神に多少ふれておきたいと思います。

 仏教は、本来、革命の宗教なのであります。釈尊が仏教を興したのも、権威主義に堕し、悩める民衆の救済を忘れたバラモン教に対抗して、宗教を人間の手に取り戻すためであったことは、周知の事実であります。

 “宗教のための人間” から “人間のための宗教” への大転回点が、実に仏教の発祥であったのであります。仏教はまさしく民衆蘇生のための革命のなかから生まれたといっても過言ではないのであります。

 

  民衆遊離が退廃を招く

 

 しかし、その仏教も、時代を経るにつれて、出家僧侶を中心とする一部のエリートたちの独占物となっていくのであります。在家の供養で支えられた僧院の中で、学問的に語られるにすぎないものとなっていったことは、皆さんもよくご承知のところでしょう。すなわち、再び “宗教のための人間” への逆流が起こり始めていってしまったのであります。

 これが小乗仏教といわれるものであります。これに対する宗教革命が大乗仏教運動でありました。

 すでに、釈尊滅後百年ごろ、仏教教団が二つに大きく分裂した有名な事件があった。いわゆる 「 上座部 」 と 「 大衆部 」 の分裂がそれであります。

 これは同じ出家教団同士の意見の対立でありました。上座部とは “上に座る” と書くように、在家の民衆から供養を受けながら、それを当然のごとく考え、民衆をへいげいし、エリート意識をもって君臨していた教団であります。

 これに対し、大衆部は、常に在家民衆との対話接触を保ち、仏教は民衆に開かれたものでなければならないと主張した、進歩的で柔軟な教団であります。この保守派と進歩派の対立は、形式主義に堕した仏教の根本的な革新にまでは至らなかったのでありますが、これを革命的に遂行したのが大乗仏教運動でありました。

 大乗仏教は、小乗の出家仏教が、あまりにも形式主義、官僚主義に陥り、民衆の苦悩から遊離していたのに対し、釈尊の精神、すなわち仏教の原点から問い直そうとした運動でありました。ここに、真実の仏教の覚醒の大波が、当時の全インドをつつみ、それはやがて中国へ、朝鮮へ、日本へと流布していったのであります。

 以上、概要ではありますが、仏教史における最大の革命であった大乗仏教運動を概観しましたが、これは、仏法というものの流布における 「 現在 」 から 「 未来 」 への歴史の教訓を見いだそうという趣旨からであります。そこで得た教訓の一つは、かつての民衆のなかから生まれ、みずみずしく躍動した仏教が、沈滞・形骸化していった大きな要因のなかに、仏教界全体が “出家仏教” に陥り、民衆をリードする機能を失ったという事実であります。もともと仏教とは、民衆のものであり、出家たる法師もまた、民衆の指導者の意味であったのであります。

 

  学会は御本仏に直結の実践

 

 日寛上人の 「 撰時抄文段 」 にいわく 「 涅槃経第十八に云く、時を知るを以ての故に大法師と名づくと云々。文意に云く、時剋相応の道を知るを以ての故に大法師と名づくと云々。大法師とは能く法を説いて衆生を利する故なり 」 とございます。

 この御文に明白なごとく 「 大法師 」 とは、時剋相応の道を知る。つまり、今はいかなる時かを凝視しつつ、広宣流布の運動をリードし、能く法を説きつつ、広く民衆の大海に自行化他の実践の波を起こしゆく存在なのであります。そのためには時代の激流を鋭く見極め、時には民衆の盾となって殉教の徒を守り、民衆とともに仏法のために戦いゆくことが必要条件となるのであります。

 その尊い姿を貫き通された方こそ、もったいなくも御本仏日蓮大聖人であります。その崇高なご一生は 「 法師 」 とはいかにあるべきかを、歴史の偉大な教訓として末代の私どもに遺されたのであります。「 受けがたき人身を得て適ま出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり 」 ( 御書全集一三八六n ) 等とまで仰せなのであります。多くの御抄には、大聖人の仏法指導者に対する厳しい誡めがありますが、大聖人は鋭く、仏法の体内から仏法が滅びゆく事態を察知され、破戒の他宗の僧を例に、あるべき出家の在り方をご教示くださっているのであります。

 そして 「 経文の如くならば末法の法華経の行者は人に悪まるる程に持つを実の大乗の僧とす、又経を弘めて人を利益する法師なり 」 ( 同五五六n ) とご断言され、「 実の大乗の僧 」 ならば三類の強敵との戦いを回避してはならないというのであります。むしろ競い起こる三障四魔との激闘のなかに身を敢然とおきなさい――と、いわれているのであります。この精神こそが、日蓮大聖人門下の規範であり、誇りであり、使命でもあったことは論をまちません。だれびとがなんといおうとも、私どもはこの通りに実践しているのであります。

 同じく 「 松野殿御返事 」 のそのあとに、大聖人は在家の信者の立場を明らかにし 「 然るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経文の如くならば随力演説も有るべきか 」 ( 同一三八六n ) と仰せになられている。これによると、在家はもっぱら唱題に励み、供養し、そのうえ、力にしたがって仏法を語るべきであるとされているのであります。僧侶がもっぱら折伏に徹し、三類の敵人と戦い、広宣流布するのに対して、在家は自身の成仏のため唱題し側面から僧侶を応援する立場である。その本義に立てば、現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしているといえましょう。これほど、偉大なる仏意にかなった和合僧は世界にないのであります。故に成仏も功徳も、絶対に間違いないと思いますが、いかがでしょうか ( 大拍手 )。

過日の総会講演でも紹介しました大乗仏典の一つ 「 維摩詰経 」 においては、受戒作法の形をふんで、頭を剃髪したり、染衣を着ているから出家なのではなく、真実の仏教精神を身に体しているか否かが大事であると主張しているのであります。すなわち、形や姿で決めるのではなく、仏教徒の心、姿勢いかんが真実の出家か否かを決定するのであると説かれているのであります。

 もともと、出家とは 「 家を出る 」 と書き、名聞名利の 「 家を出 」 「 煩悩の汚泥 」 を離れるとの意味であります。剃髪は、出家の象徴であったといえましょう。二度と家に帰らないとの決意をこめたしるしとして、剃髪の形式をとったものと思われます。

 それ故、大切なのは、あくまで出家の志であり、決意であり、修行の深さなのであります。

 このような出家の元意に立ちかえるとき、出家、在家を問わず、ひとたび仏教の正しい信仰に目覚め、苦悩の民衆を救済しようとの精神に立った人は、その瞬間から、形式を超えて精神においては出世間の人々であるというのであります。

 大荘厳法門経には、次のような文言があります。「 菩薩の出家は自身の剃髪を以て名けて出家と為すに非ず。何を以ての故に。若し能く大精進を発し、為めに一切衆生の煩悩を除く、是を菩薩の出家と名く。自身に染衣を被著するを以て名けて出家と為すに非ず。勤めて衆生の三毒の染心を断ず。是を出家と名く 」 等々とございます。

 仏教の原点に立ちかえった大乗仏教が、菩薩の出家を提唱したのも、なによりも苦悩の民衆の真っただ中に飛び込み、民衆の苦悩を我が苦悩として戦えとの、仏教出発の精神によったからなのであります。大乗の菩薩僧の主流は、この経文のごとく剃髪せず、俗衣を着した在家で活躍する群像なのであります。

 故に、私ども学会員は、形は在俗であろうとも、その精神においては出世間の使命感をもって、誇りも高く仏法流布のために、いよいよ挺身してまいりたいと思うのであります。

 

  供養は仏法のためになすもの

 

 、次に “供養” ということについて、仏法の本義に立脚して、少し考えてみたいと思います。日蓮大聖人の御書を拝しますと、いたるところに大聖人が仏法への供養をたたえ、その功徳が甚大であることを説かれております。私ども創価学会もまた、この大聖人の御金言のごとく今日まで仏法のために未曾有の供養をしてまいりました。これは、すでに元旦に申し上げた通りであります。

 「 諸法実相抄 」 には 「 日蓮を供養し又日蓮が弟子檀那となり給う事、其の功徳をば仏の智慧にても・はかり尽し給うべからず、経に云く 『 仏の智慧を以て籌量するも多少其の辺を得ず 』 」 ( 同一三五九n ) とございます。

 広宣流布への真実の 「 信行学 」 の路線を進む創価学会に、大福運、大功徳があることは絶対に間違いないのであります。仏法真実ならば、私どものその福運は、子孫末代にいたるまで、陽光がさんさんと降り注ぐであろうことを、どうか確信していただきたいのであります。

 、更に、この供養について、若干、歴史的なことを申し上げますと、前にもお話しした維摩詰は、在家の身でありながら供養を受けた事実が 「 維摩詰経 」 に記されております。その時の様子を経文にみますと、維摩詰は、ひとたびは固辞し、どうしても受け取ろうとはしなかった。再度の申し出に供養を受け取った彼は、これを人々から軽べつされている貧しい民衆のために半分を使い、あとを仏にたてまつり、仏法弘通のために使ったと記されております。このことは何を意味しているのでありましょう。一つには真に仏法流布に挺身し、民衆救済に進むものには、供養を受ける資格があるとの思想が底流にあること。二つには、その供養が民衆のために、仏法のために還元されるならば、それは仏法の本義に叶うということなのであります。つまり、供養とは、あくまで仏法のためになすのであります。その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります。

 

  御本尊を受持する在家の人も法師

 

 大乗仏教の最高峰たる法華経になりますと、更に徹底化され、真の “法師” についてふれられています。

 法華経法師品には、法華経を受持、読、誦、解説、書写する、つまり五種の妙行を実践する者を法師と名づけ、在家、出家ともに、法華経受持の人は最高の供養を受ける資格があると強調しております。

 また、法師功徳品においては、法師の功徳が説かれ、それは六根清浄であると結論づけられております。

 眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が清浄となるとは、現代的にいえば、生命の浄化であり、人間革命であります。

 それでは、今日において、大乗仏教の理念を継承し大聖人のご精神に叶った真実の意味の出世間の団体は、日蓮正宗、創価学会をおいてどこにありましょうか。「 日女御前御返事 」 にいわく 「 法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり 」 ( 同一二四五n ) とございます。

 すなわち、御本尊を受持し、南無妙法蓮華経と唱うれば、受持即観心で、五種の妙行が即座に具足するのであります。その人は在家の立派な“法師”となるのであります。

 「 御義口伝 」 に 「 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は法師の中の大法師なり 」 ( 同七三六n ) とあるごとく、別しては日蓮大聖人、総じては御本尊をたもち、題目を唱える私たち創価学会もまた大法師の名に含めてくださり、今日における真実の出家という意義になってくるのであります。日達上人猊下も 「 有髪、無髪を問わず、戒壇の大御本尊様を南無妙法蓮華経と拝し奉るすべての人が、和合僧の一団となって、我々僧侶とともに、その和合僧の一員であるということになるのでございます 」 と、はっきり申されている。すなわち出家も在家も全く同格であるとの言であります。

 

  我らも出世間の自覚

 

 一、次に、寺院の起源から、その本来の意義と、創価学会の本部・会館のもつ使命を考えてみたいと思います。

 仏教における寺院の原形は 「 精舎 」 であります。本来、釈迦の行った化導方式は、一定の寺院にとどまり、そこに住して説法や儀式を行うというものではない。遊行といって、全インドを駆け巡り、大衆のなかで仏法の精神を説くのであります。ところが、インドには雨期があり、三か月というものは遊行できない。そこで一か所に集まって修行する場所が必要となった。それが精舎であります。有名なものに舎衛城の祗園精舎、王舎城の竹林精舎があるのは、皆さんもよくご承知のことと思います。

 したがって、当時の精舎は、僧職者がそこに住み、宗教的儀式を執り行うという現在の寺院とは趣が異なっていた。一種の 「 拠点 」 であったといってもよいでありましょう。一年のうち雨期に僧侶が集まり、そこで修行し、雨期が過ぎると各地へ散っていくという方法がとられていたのであります。

 後にインド仏教の中心となったナーランダ寺院においては、研修の度合いを更に深め、一種の大学としての機能を果たしております。各地から修行者が集まり、起居をともにしながら、仏教の教義、布教の在り方などを学び、一定の期間を終えると、また各地に戻っていったのであります。まさに、現代の講習会や研修会を彷彿とさせるものがあります。

 寺院を伽藍と称するのは、僧の集まりをサンガ、その修行者の集まる建物をサンガランといったところからきております。したがって、寺院は 「 修行者の集まる場所 」 という意味を本来もっているのであります。

 寺院を別名 「 道場 」 ともいうのは、その意味からであります。儀式だけを行ない、我が身の研鑚もしない、大衆のなかへ入って布教をするわけでもない既成の寺院の姿は、修行者の集まる場所でもなければ、ましてや道場であるわけは絶対にない。仏法を心から信ずる人々が喜々として集まり、そこで真摯に研鑚しあい、社会へ仏法の精神を拡大していく拠点であってこそ、初めて道場の名に値するのであり、法華経に 「 当詣道場 」 とあるように、仏界湧現の場ともなっていくのであります。

 また大乗仏教においては、法華経の 「 多宝の塔 」 思想の影響等により仏塔信仰が盛んになって、その塔の周りに伽藍などをそろえておりましたが、そこで出家僧だけではなく、在家の修行者を核とする大乗の菩薩が修行していたようであります。つまり、在家の人たちの拠点ともなっていたのであります。

 それは、小乗仏教が大衆と遊離し、特殊な集団と化して、例えば在家の信者を寺院へ入れないなどの事態が起こってきたからであります。

 そこで在家だけの拠点をつくる必要が出てきて、僧形ではない菩薩僧を中心とし、新たな寺院を拠点として活動を行なうようになっていったのであります。

 当時の菩薩僧の多くは、出家に対し在家であり、それぞれの家をもっております。また、剃髪しているのでなく、有髪である。衣服も僧衣でなく俗衣、つまり普通の衣服をしているのであります。大乗仏教の興隆は、この在家中心の寺院を拠点として生まれた在家教団によってなされたのであります。

 そこでおもに説かれたものは 「 ジャータカ 」 つまり 「 本生譚 」 ( 因位の修行をつづった物語 ) であります。難解な教義を教えるよりも、釈迦が仏になるために、どのような修行をし、行動をとったかを、民衆に分かりやすいように説くことから、仏道修行のなんたるかを教え、仏法の基本精神を伝えようとしたのであります。

 このようなところにも、大乗仏教の民衆尊重の精神があらわれていると考えられるのであります。故に、我が学会教学も、永遠に、机上の観念ではなく、人々の生活実感と密着した、実践あふれる教学であっていただきたいと念願するものであります。

 

  学会の会館は民衆蘇生の道場

 

 また近くは末法の御本仏日蓮大聖人も、一生涯、既成仏教のような寺院は持たれなかった。お亡くなりになるまで草庵であります。折伏弘教の指揮をとられ、また自ら布教のために歩く拠点としての庵室を持たれたのみであります。

 これは当時、伽藍仏教と化していた宗教界への鋭い警鐘であり、仏教革新運動であったといえるのであります。大聖人も、また釈迦も、あくまで革命運動を遂行されたということを忘れてはならないと思います ( 大拍手 )。

 ともあれ寺院とは、このように、本来、仏道修行者がそこに集い、仏法を研鑚し、そこから布教へと向かうための道場、拠点であることは論をまちません。その本義からするならば、今日、創価学会の本部・会館、また研修所は、広宣流布を推進する仏道実践者が、その弘教、精進の中心拠点として集い寄り、大聖人の仏法を探究するところであり、そこから活力を得て、各地域社会に躍り出し、社会と民衆を蘇生させていく道場であります。すなわち、学会の会館・研修所もまた 「 近代における寺院 」 というべきであります ( 大拍手 )。

 もちろん日蓮正宗の寺院は、御受戒、葬儀、法事という重要な儀式を中心とした場であり、これに加えて、広布の法城たる会館があることによって、初めて進歩と躍動の “開かれた宗教” の勃興があることを銘記していただきたいのであります ( 大拍手 )。

 先日、ある大使と歓談したさい、その大使は、宗教がいわゆる既成の寺院に閉じこもったものではなく、平和・文化のためにも、もっと幅広い次元にまで浸透していくべきであり、その意味で創価学会の路線は正しいと思う、と評価をしておりました。

 今までの既成宗教は、いわば民衆をそこに従属させる形で安泰を保ってきました。しかし、それのみでは保守であり、現在においては、重大な行き詰まりを露呈してしまっております。故に、二重方式で、我が会館を守り、そこを広布の拠点としていく行き方は、かつてない近代的な方程式であり、さまざまな風波を乗り越え、一切を外護していくための新しい行路であり、基盤なのであります ( 大拍手 )。

 

  神力品の 「 斯の人 」 に深意

 

 、最後に、法華経神力品には 「 日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し 」 とあります。

 この経文に、まず 「 斯の人 」 とあることに注目したいのであります。「 この如来 」 とも 「 この菩薩 」 とも 「 この僧 」 ともない。「 斯の人 」 とは、いうまでもなく、日蓮大聖人は、ご自分であると断定されています。すなわち 「 斯の人 」 とあることに、法華経も、また日蓮大聖人も、どれだけ人間原点としての立場を貫いているかが明瞭なのであります。

 衆生の闇を滅するのも人間であれば、衆生も一人一人、喜怒哀楽の情をもつ人間であります。人間であるが故に人間の苦悩を打ち破ることができる。生命をもったものが、生命をみがいていくことができるのであります。

 また、そのあとに 「 世間に行じて 」 とあります。世間とは、社会であり、社会の泥沼のなかで戦うのでなければ、衆生の苦悩の闇を晴らすことは不可能なのであります。

 日蓮大聖人が立宗以来、当時、日本の中心地である鎌倉で弘教活動を展開されたのも、「 世間に行じて 」 の経文通りのお振る舞いであります。

 故に、世間の方向へ、社会のなかに仏法を展開していかなければ、大聖人の実践、そして目的観とは逆になってしまうことを恐れるのであります。

 今、私は、恩師戸田先生が昭和二十八年の元旦に 「 学会は身には功徳の雨をこうむり、手には折伏の利剣を握って、獅子王の勇みをなしていることを堅く信ずる 」 といわれたことを思い出します。私どもも、さんさんたる元初の功徳の陽光を胸に浴びながら、慈悲の利剣を固く手にし、獅子王のごとくこの一年もまた、裕然たる生命で、創価桜の道を切り開いてまいりたいと思います。

 大切な皆さま方のますますのご健康と、ご活躍をお祈り申し上げまして、私の話といたします ( 大拍手 )。

( 52.1.15 関西戸田記念講堂 )  ... (転載記事) ... 。











   “真空を知ってる如来” を思い出す。真空とは宝塔。如来とは多宝如来から授記を受けた久遠元初自受用報身如来、即ち現一切色身三昧 ( ビッグバーン )、の一宇宙 ( 仏国土 ) を知る無生法忍 ( “無” / “空” ) の如来。“法華経” を真読し “悟り” を得るとこの境涯に達して創価三代会長への “報恩感謝” で充たされる ... 。

  無論日蓮大聖人の仏法 “勤行唱題行” で得られる境涯全ては釈尊の “法華経” に帰依する。その為に三次元世界が存在し人類が仏法を修行して “悟る” ように導いているのです。この世に存在する全ての宗教のゴールが “真空を知っている如来” を思いだす “事” なのです。それは “無” という価値創造相対でもある “絶対的幸福境涯” の “事” なのだと不肖小生も思います 。。。



  
posted by 石君 at 00:39| 東京 ☔| Comment(0) | 広 宣 流 布 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月28日

生きる!..


 “法華経” ( 宇宙の真理 ) と生きる “幸福” な人生とは ... 。


  ( 人として生まれた不思議さ )


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  人として生まれた

  不思議さを思い

  よりよく生きる道を求めよ



  人間の身は受けがたく、

  寿命あるものは生きがたい。

  正しい教えは聞きがたく、

  もろもろの仏は出現しがたい。

(法句経182)


  ◎いまを生きる確かな手がかり

  科学が進歩して、人工生命すら作ろうと試みる現代では、「 不思議 」  の範囲が、ずいぶん狭くなったような気がします。しかし、たとえば一口に 「 人間 」  といってもまったく同じ人間は存在せず、一人一人がたどる人生においては、縁や出会いの不思議さをはじめ、いまだ未解決のことが圧倒的に多いのが現実でしょう。

  何よりもいまこの時代に生まれ、ここに生きていること自体が大いなる不思議なのです。「 人間の身は受けがたく 」  というこの句も、私たちがいま生きて、仏の教え ( 法 ) にふれていることの不思議さ、ありがたさを伝えています




  ( 長老の道 )



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  ただ空しく年をとるな

  老いてこそ賢者の道を歩め




  頭髪が白くなったからといって

  「 長老 」 とみなされるわけではない。

  ただ年をとっただけなら、

  「 空しく老いた人 」 と言われる。

(法句経260)


  ◎老いの苦を脱する長老の道

  老いに向かいはじめた人には、ギクリとすることばかもしれません。

  では、どんな人が長老とみなされるかというと、次の句に、「 誠意と徳があり、慈しみと慎みを持ち、人を傷つけず、自らを整え制して、汚れをすっかり吐き出した人。彼こそ "長老"  と呼ばれる 」  とあります。

  お釈迦様は 「 四苦 」 ( 生、老、病、死 ) の一つである 「 老い 」  について、戒めの句を多く残しています。




  ‘‘聞いて学ぶことの少ない人は、牡牛 ( おうし ) のように老いていく。その肉は増えるが、その智慧が増えることはない。’’

(法句経152)





  ( 質素に生きる )



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   (日本人の健康食はこれです)



  人を非難せず食事は質素に

  独 ( ひと ) り自分を見つめる時間を持つ




  人を非難せず、傷つけず、戒律をよく守り、

  食事には適量を知り、独り静かに坐り臥 ( ふ ) し、

  心を整えることにつとめる。

  これが諸仏の教えである。

(法句経185)


  ◎日本人の生活規範を支えたもの



  ここでは仏の教えによる生活がより具体的に述べられています。戒律とは修行僧が守るべき生活規模で、自発的に守るべき 「 戒め 」  と、場合によっては罰則もある他律的な 「 律 」  を合わせたもの。この句の 「 戒律 」  を 「 道徳 」  に置きかえて再度読んでみると、この教えはまさに古くからの日本人の生活規範と重なっていることがわかります。



  他人を声高に非難したり傷つけたりせず、道徳心を持ち、食事は質素にして、一人端座したり、野山に身を置いたりして自分を見つめる時間を持つ。行住坐臥 ( ぎょうじゅうざが ) { 立ち居振る舞い } にも心をくばり、茶の湯や禅の精神を学ぼうとするのも、心を整えることの大切さを日本人がよく知っていたからでしょう。

  僧侶が戒を堅く守ることを 「 持戒 」  ( じかい ) といいますが、それを実践していくうちに、“自分が仏に守られている”  ことを実感するようになるとも聞きます。

  道徳もまた世の中全体の心の安定を守ろうとするものです。古い生活規範が崩れつつあるいま、あらためて道徳心に目を向けることが大切なのかもしれません。






   いのちの終わりをどうとらえるか



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   地に横たわるとき

  もう何も恐れることはない





  この身はまもなく地上に横たわるだろう。

  意識を失い、無用の木切れのように、

  投げ捨てられて。


(法句経41)


  ◎いのちの終わりをどう迎えるか!

  聖者であり悪人であり、人は死ねばひとしく無用の木切れのようになり、尊敬も軽蔑 ( けいべつ ) も、富も貧しさも、何ら関係のない物体となってしまいます。

  酷な言い方のようでもこれは真実であり、お釈迦様もまたシャカ族の王子時代に、そうした多くの死を目にしたことが、のちに出家を決断させる要因になったようです。いずれやってくる死は誰にも避けられない現実で、だからこそそれをどう受けとめるが、「 人生の質 」  に大きく関わってくることになるでしょう。

  うらうらとしなんずるなと思ひとけば、心のやがてさぞとこたふる

  これは西行 ( さいぎょう ) の詩で、その意は 「 よくよく考え、うらうらとのどかに死んでいくのがよいなと思い至れば、心はすぐに、"そのとおりだ" と答えるのだった 」。

  うつらうつらまどろむようにして、このまま死んでいく.......。 そこに明確な生と死の境界はなく、ただ生の延長線上に死があるだけです。「 すべては移ろい、不変不滅のものはない 」。

  無常を知ることは、死を必要以上に恐れたり、大げさに身構えて迎える必要はないのだと知ることなのかもしれません





  命に感謝



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  心が整っていないと、本物の神仏は降りてこない





  君が自分を愛 ( いと ) しく思うなら
 
  自己を守り

  しかと目覚めよ




  もし自己が愛しいものと知るならば、
  自己をたしかに守ることだ。
  賢い人は人生の三分の一だけでも
  目覚めているべきだ。


(法句経157)


  ◎いのちに感謝し生を楽しむ

  自分という存在、自分がこの世に生かされているいのち。

  それを愛しく思うなら、自己を粗末に扱うな、自己をよく守り、心をおだやかに整えよ。そして人生の三期 ( 青年期、壮年期、老年期 ) の一つだけでもしっかり目覚めて、世のためとなる善を行うことだ。

  お釈迦様が言っているのはそういうことです。自己を守るとは、怠ることなくつとめ励むこと。仏教では 「 不放逸 」 ( ふほういつ ) ということばをよく使いますが、つまり自分を見失わず、なすべきことを知り、懸命に生きるということです。

  「 人生の三分の一 」 の部分は、享楽に夢中な青年期、家族や仕事に責任を負う壮年期、たとえこの二つの時期に教えにしたがうことができなくても、老年期だけでも自己を見つめ、世のためになる善を積むべきだというのです。

  原典には 「 夜の三区分のうち一つだけでも目覚めておれ 」 とあります。三期すべて眠り惚 ( ほう ) けていてはお粗末な人生で終わってしまいます

  自分を愛しく思うなら、しっかり目覚め、いのちに感謝し、生を存分に楽しむことです。 





   賢者の道とは



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  賢者の道! お互いに頑張りましょう (^.^)



  愛される善き人に

  あなた自身がなってほしい


  徳と見識をそなえ、


  正法にしたがい、真理を理解し、


  自己のなすべきことを行う者は、


  世の人々に愛される。


(法句経317)


  ◎賢者とはあなた自身が目指すもの

  ここで言っているのは、いわば世間の人々に愛される人のモデルケース。

  ほかにも、お釈迦様は、「 賢者とは 」 「 聖者とは 」 「 善き人とは 」 という言い方で、"目指すべき人間像” を人々に繰り返して説いていました。

  すでに紹介したことば以外にも、「 賢者は身を慎み、ことばを慎み、心を慎む。彼らはじつによく自分を制御している 」 ( 法句経234 )、「 常に平静で、怨みを持たず、恐れることがない者、彼こそ賢者とよばれる 」 ( 法句経258 ) など多数見られます。また賢者と住んだり親しく交わることをすすめ、「 賢く智慧があり、多く学び、忍耐づよく、戒を守る。そのような聖者、善人、賢者に親しみなさい。月が星の軌道にしたがうように 」 ( 法句経208 ) という句もあります。

  ただ問題は、昔もいまもこうしたお手本となるような賢者や善き人は稀な存在で、出会うのは相当困難であること.........。 お釈迦様はそれを承知で語りかけました。

  私たちはこれらの句から、「 だから、まずあなた自身が賢者を目指すのです 」 というお釈迦様の切なるメッセージを受けとめることが大事です。





  心身の健康



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  健康と満足

  そして信頼があれば

  幸福はそこにある




  健康は最高の利得であり、

  満足は最上の財産である。

  信頼は最高の親族であり、

  涅槃 ( ねはん ) は最上の安楽である。

(法句経204)


  ◎心身の健康が安楽をもたらす

  健康、満足、信頼、そして涅槃寂静 ( ねはんじゃくじょう ) という、いわば幸福のための四つの大切なことをあげた句です。現代人にとってもそのまま通じるであろう、よくかみしめたいことばです。

  無病で 「 健康 」  であれば、生活上の喜びはそのまま喜びとして、憂いなく受けとめることができます。家族や友人で誕生日を祝うことや、進学や就職、結婚や出産などの祝い事も、本人や家族が病気だったりすると心から喜ぶことはなかなかむずかしいものです。健康であることはそれだけ利得なのです。

  いまの自分に 「 満足 」  すること、心が満たされていること、つまり 「 足りるを知る 」  ことは心の安定をもたらし、どんな宝物よりも価値ある財産となります。

  家族や友人であっても 「 信頼 」  という絆がなければ、本当の家族や友人とは言えません。逆に固い信頼で結ばれるなら、最高の親族.理解者になれます

  そして 「 涅槃 」。心静かに安らいだ境地 ( 寂静 ) にいるのは何よりも幸せなことでしょう。これを確かに支えるのが、健康、満足、信頼なのです。






   善の心が



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   (善の心さえあれば、輝くヒマラヤ山脈のように........。)




  善き人は遠くにいても
  雪山の如く輝いて見える



  善き人々は遠くにいても輝いて見える、
  雪を頂く高山のように、
  不善の人々は近くにいても見えない、
  夜影に放たれた矢のように。

(法句経304)


  ◎善の心があなたを輝かせる

  雪を頂く高山とは、お釈迦様が生まれた北インドから望めるヒマラヤ山脈のこと。¨世界の屋根¨ といわれるヒマラヤは、たしかにどこからでも神々しく輝いて見えそうです。善人はそのように遠くからでも輝いて見え、不善の人 ( 悪人 ) は近くにいるのに闇夜のように見えないというのです。

  しかし、現実社会を考えるとやや違和感を覚えます。世の中で目立つのは、すぐれた才能を持つ人、容姿や人柄で特別人を惹きつける人、富と名声を持つ人。ここまではいいとして、善人の範疇 ( はんちゅう ) から外れそうな、自己主張の強い人、生活が華やかな人、並外れてお金を儲けている人、落着きがなく常に大騒ぎをして人を巻き込む人など。悪人とは言い切れないが善人ではない.........。

  そういう人たちは、目立ちはしても善の 「 輝き 」 がない。お釈迦様の立場からすれば見えない ( 認められない ) というのがこの句の本意でしょう。

  逆に世の中では目立たない存在でも、真の善人はお釈迦様が必ず見守ってくれています。富も才能もなくても、善の心さえあれば輝く存在であることを信じましょう





   祈りのたいせつさ



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   (祈りの大切さを。)



  愛する人さえ救えない
  死の理不尽さを引き受ける



  子を救うことができない。
  父も親戚も救うことができない。
  死に捉えられた者を、
  どんな親族も救うことはできない。

(法句経288)



  ◎死を見送る祈りの先には

  けふのうちに とほくへいってしまうわたくしのいもうとよ みぞれがふって おもてはへんにあかるいのだ

  宮沢賢治は、病に冒され死の床に伏した妹を見つめ、哀切きわまる、しかし静かで美しい詩を残しています。これはその 「 永訣の朝 」 という詩の冒頭の一説。妹は熱にうなされるように、「 あめゆじゃ ( あめゆき ) をとってきてください 」  と兄に頼み、賢治は ( わたくしのやさしいいもうとの さいごのたべものをもらっていこう ) と兄妹で使ってきた二つのお碗に外のみぞれ雪をすくってきます。

  そして ( これが天上のアイスクリームとなって、妹と他の人々への聖なる資糧をもたらすように、わたくしのすべての幸いをかけて願う ) と終わる、祈りのような詩です。

  愛する人の死に際して、人は祈ることしかできません。そして死にゆく者をだれも救うことはできません。子も親も、神さまさえも。しかし、その死の理不尽さを知った人間だけが本当の優しさを身につけて生きていくのです。 





   今日という一日




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    (今日という一日を大事に楽しく)



  穏やかな心になれる ................ 釈尊の言葉をエッセイで紹介します。

  この一日を、今あるもので楽しもう


  老後の貯金のこと。

  子どもの教育費のこと。

  治療中の持病のこと。


  生活の心配で気もそぞろな私たち。

  そんな心配のせいで

  春の桜も夏の青空も楽しめなくなってない?

  青空を目にしたらサッと外に出てみよう。

  冷蔵庫にキャベツしか残っていなくても

  それで炒め物をつくろう。

  キャベツ本来の美味しさが発見できる。


  今日という日はギフトのような一日。

  この一日を

  今あるもので楽しむ知恵を身につけよう。

  今を充実させれば過去と未来への恐怖は和らぎ

  もっと逞 ( たくま ) しく、もっと幸せになれるはずです。


(ウダーナヴァルガ12章7)

 
  「 一切の形成されたものは空である 」 と明らかな智慧をもって観る時に、人は苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。





  幸せの条件




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  たとえ大きな豪邸に住んでも ..........。





  穏やかな心になれる ................ 釈尊の言葉をエッセイで紹介します。

  幸せの条件


  十分な預金と大きな家
  そして気の利くお手伝いさん。

  これが全部あれば
  あなたの不安や寂しさは
  一切消えますか。

  「 金目当ての人ばかり寄って来る 」
  「 誰も本音で付き合ってくれない 」
  今度はそう言い出すんじゃない?

  人間って貪欲でわがまま。
  何かを手にしてもすぐに慣れて
  新たな欲にとりつかれる。

  今の環境に楽しさを見出し
  手にしたもの以上を望まない。

  それが幸せへの条件。

(ウダーナヴァルガ32章30)


  この世で自分にとって苦しみが滅びてなくなることを明らかに知り、善い智慧 ( ちえ ) ある人を、常に戒めをたもち汚れの無い人と呼ぶ。




  
 
  基本は一人




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  基本は一人です....。





  穏やかな心になれる ................ 釈尊の言葉をエッセイで紹介します。



  基本は一人と心に決めよう



  生まれるのも死ぬのも

  基本は一人。


  一人淡々 ( たんたん ) と バランスよく全員に挨拶し

  一人飄々 ( ひょうひょう ) と 丁寧でキメの細かい仕事をし

  一人粛々 ( しゅくしゅく ) と 間違いを反省していけば


  あなたの実力も才能も

  そして評価も何もかも

  伸びやかな春の枝葉のように

  自然に拓 ( ひら ) け高まっていく。


  上司や同僚の顔色を見る必要も

  付き合いたくない知人と飲み歩く必要も

  ムリに笑顔を浮かべてあいづちを打つ必要も、ない。


  基本は一人と心に決めれば。


(法句経329)


  もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として、共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の像のように、ひとり歩め。





  今を大切に生きる




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   生命には限りがあるから、今を大切に....。



  穏やかな心になれる ................ 釈尊の言葉をエッセイで紹介します。


  過ぎ去る時間は、あなたを待たない


  そのうち本気を出すから。

  そのうち努力するから。

  「 そのうち 」  って一体いつのこと?


  過ぎ去る時間は、あなたを待たない。

  本気で行動を起こすつもりなら

  今すぐに動きだそう。


  人間の肉体は今のままではいられない。

  一日一日年を取り

  それまで手が届いていた

  机の上の瓶ですら

  やがて手に取れなくなるのだから。


  そのうちではなく、今からすぐに取り組もう。

  今を全力で歩めば、その積み重ねの先の未来は

  もっと光に満ちた、穏やかなものになるから。

(ダンマパダ156)


  若い時に、財を獲ることなく、清らかな行いを守らないならば、壊れた弓のように横たわる ........... 昔の事ばかり思いだして他にかこつけて恨み嘆く。






   継続の道




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   諦めずに、こつこつと進めば....。





  穏やかな心になれる ................ 釈尊の言葉をエッセイで紹介します。



  また、この道に戻っておいで



  つらくて苦しいなら

  いったん逃げ出していい。

  でも忘れないで。

  成功者とは

  あきらめなかった者たちのこと。


  彼らは幸運に恵まれてたわけでも

  百年に一人の逸材でもない。


  栄光を手にした者たちは

  みんなが舞台を降りる中

  一人でこつこつ続けてきた。
 
  だからこそ、最後に栄光を手にしたのだ。


  今そんなに苦しいのなら

  一休みするのもいい。

  でもしばらくしたら、また歩き出そう。

  正しい道は、継続の道しかないから。


(ウダーナヴァルガ16章2)


  目的が達成されるまで、人は努めなければならない。自分のたてた目的がそのとおりに実現されるのを見ろ。........... 希望したとおりになるであろうと。





  中道に生きる



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  「中道」を心がけ、足りるを知って生きよう....。





  穏やかな心になれる ................ 釈尊の言葉をエッセイで紹介します。

  「 腹八部目 」 とはよく言ったもの



  食べること、遊ぶこと、働くこと

  すべてにおいて

  やりすぎると興奮からは、離れよう。


  お釈迦さまの説かれた 「 中道 」 ( ちゅうどう ) を心がけ

  足りるを知って生きよう。


  早めに起きて

  ほどほどの量を食べ

  身体をきちんと動かす。

  寝る前には心を静めて。


  「 腹八分目 」 とは

  昔の人はよく言ったもの。


  均整のとれた生活習慣こそ、

  身体と心に効く一番のクスリ。


(スッタニパータ144)


  足りることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の人の家で貪ることがない。





  「 噂 」 の真相とは



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  花の香りは、吹く風の向きに逆らって流れてはいきません。



  しかし賢者の香りは、風に逆らってでも、広まっていきます。



  全方向に




(法句経より)





  賢者の噂は、自然に広がっていく



  「 噂 」 の真相 ................ 本当にすごい人は誰なのか?



  すぐれたものの評判は、みずから 「 この商品はすごい 」  「 私はすばらしい 」  などと宣伝して回らなくても、自然に広まっていくものです。あるレストランは、何の宣伝もしていませんし、看板もだしていません。それでも、口こみでおいしいという評判が広まり、店内はいつも満員です。



  「 人の噂 」  とは、そういうものなのです。たとえ、ほかの人に成果を横取りされ、ウソの悪評を流されようとも、真に力のある人、誠実な人の評判は、必ず広まります。



  もし周りから高い評価を得たいのなら、自慢話をして回るよりも、実力を高めるための勉強に時間を費やすのが一番です。今やるべきことをコツコツこなして、実力を蓄え、確実に成果をだしていけば、「 いい噂 」  は、自然と自分の後についてくるようになります。



  実力もないのに、身の丈に合わない大げさな自慢話をしていたら、そのうち 「 あの人は口先だけだ 」  と、悪い噂が立ちかねません。周りによく見られることに執着すればするほど、現実は理想とかけ離れていきます。



  賢者は、愚者が自慢話をする前に、目の前の一歩を、確実に踏みだしています。






  お金のつかいかた




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  (お金に振り回されている人に贈る心の安定剤)





  人は  “自分に悪い結果をもたらす行動”  をとりがちです。



  “自分によい結果をもたらす行動”  をとるのは、難しいものです。



(法句経より)







  得たもの一部を、人に与える



  幸せになりたい、夢を実現させたい、満足のいく生き方をしたい、と誰もが思っています。ところが、そのために “正しい行動”  をする人は、意外に少ないのです。むしろ、“自分を不幸にする行動” を安易にとるものです。



  たとえば、「 儲かったお金を、自分のため以外にはつかわない 」  という行動、確かに、幸せを手にするために、夢を実現するためには、お金は必要です。ですが、自分のためだけにつかうと、お金は逃げていき、かえって夢の実現は遠のくことが多いのです。不思議と質の悪い商品をつかまされたり、相場より高い値段で買わされたり、結局、損するというように。



  また、自分のためだけにお金をつかうあなたを周囲の人が見て、「 あの人がめつい 」  などと、やっかみ混じりの悪評を立てたりするので、結果的に幸せが遠ざかるのです。



  では、“正しい行動は”  は? それは、得たお金の一部を、お世話になった人へのお礼の品や、親孝行するための旅費、困っている友人の手助けをすることにつかうのです。 収入の一割もつかえば十分でしょう。



  他人に無条件で与える行為が、本当の幸せをもたらします。自分が困った状況に陥れば他人から手を差し伸べられるようになったり、よい条件の仕事が次々と舞い込んだりして、結果的に自分の夢の実現も早まります。心の豊かさとお金を、両方得られる幸運の呼び水となるのです。






  自分の物差し




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  この物差しで「人生の充実度」を測ってみよう





  眠れない人には、夜の時間がたつのが長く感じられます。



  真理を知ろうとしない愚者には、



  人生の時間がたつのが遅く感じられます




(法句経から)







  毎日一つは、新しいことをしてみる。



  「 時間の流れる速さ 」  には、人によって、違いがあります。 あなたは、日々どう感じていますか? 「 楽しい 」  おもしろい 」  と感じているときは、時間がたつのがとても速く感じられます。それに比べ、「 つまらない 」  「 退屈 」  「 面倒くさい 」  と感じていると、時間がたつのがとても遅く感じられ、時計ばかり気になるものです。



  「 人生 」  も同じです。 いまこの一瞬を楽しんで、一生懸命生きる人は、一日があっという間にすぎ、毎晩、明日がくるのを楽しみに眠りにつくことができます。これに対し、自分の人生に退屈している人は、家でも職場でも、時間がたつのが遅く感じられて仕方ありません。



  たった一度の人生をめいいっぱい楽しみたいのなら、そして人生の真理を知ろうと思うのなら、自分で 「 感動 」  を味わう工夫をしてみましょう。もっとも簡単に 「 感動 」  を味わう方法は、今までやったことがないことに挑戦することです。



  初めて経験することは何でも、発見と感動が満ちています。失敗することもあるでしょうが、それもかけがえないのない経験です。



  未知の経験一つが積み重なって、深み広がりのある充実した人生が織りあがるのです






  行動を起こす



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  夢を叶える人が “絶対に言わない言葉” とは





  自分が成すべきことがあるならば、断固として実行しなさい。



  それが願いを叶える唯一の方法です




(法句経より)





  「 さえあれば 」  という言い訳をやめる。



  「 才能さえあれば、ミュージシャンになれたのに 」  「 資金さえあれば、独立できたのに。とっておきのビジネスのアイデアがあるんだ。それを実現すれば、成功間違いなしなのに 」  「 もう一度学生に戻れたら、絶対にサボらないで勉強するのに。あのとき、遊んでばかりいたから、今自分の夢を果たせないでいる 」

  「 ........さえあれば 」  と言って夢をあきらめてしまう人がたくさんいます。



  もし、「 自分はこれをやりたい 」  という明確な夢があるならば、今からでも遅くはありません、夢に向かって行動すればいいのです。「 .......... さえあれば 」  と言う人は、自分に自信がないのでしょう。たとえ資金があっても、学生に戻れても、夢に向かって行動を起こしはしません。また別の 「 .........さえあれば 」  という言い訳を見つけだして、ウジウジするでしょう。自分に自信を持ってください。



  あれこれ考える前に、断固として行動する習慣をつけてください。



  そうすれば、あなたに秘められた才能が開花します。才能がなければ成功できないような分野でも、努力を積んで名声を得ている人はたくさんいます。無一文から事業を立ちあげて成功している実業家がいます。六十歳をすぎてから資格を取得して独立開業している人もいます。



  行動を起こせば、奇跡が行きます。 「 今 」  が行動するときです。






  「 若さ 」 というエネルギーを




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   「迷い」から、いつまでも抜けだせない人





  若くて力があるのに、



  怠けてばかりの人は、何も成し遂げることができません。



  道を見いだすことが、できません。




(法句経から)





  若々し力を存分に発揮する。



  「 自分がどんな仕事に向いているかわからない 」  と悩む若者が、多いようです。しかし、悩むばかりで 「 自分に向いた仕事 」  を探す努力を、ほとんどしていないに等しいのが実態です。せいぜい就職情報誌をパラパラめくる程度です。誰でも簡単に膨大な情報を手に入れられるこの情報化社会では、ともすると、インターネットや雑誌でその職種に関する情報を見ただけで、すべてをわかったような気になってしまいがちです。



  でも、頭でわかったからといって、行動を起こさない人は、結局、何も成し遂げられないのです。自分の目で見て肌で感じてはじめて、得られるもの、生みだされるものがあるのです。本気で探そうと思うなら、現場に行って自分の目で見る。そこで働いている人の話を聞く、アルバイトをして実際に手伝わせてもらうなど、やれることはいくらでもあります。



  行動することを怠ける人は、一生、机の前に座して 「 自分の天職がわからない 」  と迷い続けるしかありません。二十歳の人にとって、五十歳の人にとっても、「 今日 」  がこれからの人生で、一番若くエネルギーに溢れた日です。「 若さ 」  というエネルギーを、行動に注ぎ込めば、必ず道が開けます。






  成功するまで続ける




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  (特別な才能がなくても、これさえあれば何とかなる!)





  怠けている人の中で、一人努め励む人がいれば、



  その他の者よりも先を行くでしょう。



  足の速い馬が、のろい馬を抜いていくようなものです




(法句経から)





  偉大な成功者は、成功するまで続ける。



  こんな昔話があります。 ある村で、日照りが何日も続き、すっかり田んぼが干上がってしまいました。村人たちは、雨乞いのために祈祷師を雇いました。その祈祷師は、三日間祈り続けましたが、雨は降りませんでした。その祈祷師は、あきらめて村を去っていきました。村人たちは、「 あの祈祷師は腕が悪い 」  と悪口を言い、今度はもっと腕がいいと評判の祈祷師を呼ぶことにしました。



  次に呼ばれた評判のいい祈祷師も、三日間祈りましたが、やはり雨は降りません。でも彼はあきらめずにもう三日祈りました。ところが雨は、まだ降りません。すると彼は、さらに三日祈り続けました。そして九日目、ようやく恵の雨が降りました。



  村人は、彼を 「 やはりあんたは偉大な祈祷師だ 」  とほめたたえた。たくさんの褒美をあたえました。

  実は、この評判のよい祈祷師には、何か特別な力があったわけではありません。彼は、ただ雨が降るまで祈り続けただけなのです



  この昔話は、現代人にも、大切な教訓を教えてくれます。「 すぐにあきらめる 」  のでは、どんな能力のある人でも、偉大な事業は成し遂げられrません。



  成功するまで続ける人が、成功を手にできるのです






  果報は遅れて、




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  「いいこと」がやってくるスピードの法則





  水が一滴ずつしたたり落ちて、ゆっくりと水瓶を満たすように、



  「 よい行い 」  の見返りは、少し遅れてやってきます。



  待ちくたびれて、怠けてはいけません。



  最後には、大きな幸運で満たされます




(法句経から)





  果報は、忘れた頃にやってくる。



  あるマラソンランナーが言っていました。 「 自己のベストタイムをたった一分縮めるためには、、何日間もきつい練習を続けなけらばなりません。でも、タイムを悪くするのは簡単です。たった三日、練習を怠けただけで、タイムは5分落ちます。 」 



  あるピアニストも、言っています。 「 毎日、一生懸命ピアノの練習をしていても、なかなか上達しません。しかし、三日練習をサボると、ガタッと下手になってしまいます 」



  人生でも、同じことが言えるのでは、ないでしょうか。 バケツを朝露の滴 ( しずく ) で満たすには、何時間もかかるように、「 いい結果 」  とは、長い努力の末に、ようやくあらわれるものです。



  こんなに仕事をしているのに。こんなに勉強しているのに。こんなに努力をしているのに、報われない ......そんな思いが湧いてきて心が折れそうになったり、この水滴の話を思いだして、気長に気楽に努力に励むことです。



  偉大な成功者たちは、途中で決して気を抜きませんでした



  「 いい結果 」  は、往々にして遅れてやってくるものです。






  ハンデは逆に!




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  ハンデのある人のほうが強いワケ





  体が大きい人が強いのではありません。



  体の小さい人が弱いものではありません。



  「 怠けたい 」 という誘惑に打ち勝った人が、強いのです




(法句経より)





  ハンデは、「 強み 」 になる。



  舞の海関という力士は、体がとても小さいというハンデがありましたが、様々な妙手を駆使して体の大きい力士を倒し、角界を沸かせました。このように相撲では、大きな人が、小さな人に負けることが、よくあります。体と体をぶつけ合う力勝負の格闘技ですから、体が大きいほうが圧倒的に有利であるように思えますが、そうではないのです。



  ある相撲解説者が言っていました。「 体が大きい人は、往々にして、自分は強いという錯覚に陥りがちで、稽古を怠けてしまう。体の小さい人は、ハンデを補おうと必死に稽古する。だから、怠け者の大きな力士が、努力家の小さな力士に負けることが、しょっちゅうある 」 



  人は、才能に恵まれて優位に立っていると、怠け心がチラリと顔をのぞかせ、努力がほどひどになってしまいがちです。 逆に、弱点があるからこそ、斬新なワザや工夫が編みだされることが多々あります



  学歴がないから、偏見のない目で評価してくれる人に出会えた。病弱なので人の何倍も健康に気をつけていたら、結果的に百歳まで長生きできた、等々。 要は選択の問題です。



  「 ハンデがあるから無用だ 」  と考えて、あきらめることもできます。 「 ハンデがあるから、できることがある 」  と前向きな発想で、チャレンジすることもできます。 あなたはどちらを選びますか?





  信念を持って励む人に!



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  さすが元メダリスト!





  信念を持って、自分がするべきことに励んでいる人は、



  困難に遭っても、打ちひしがれることはありません。



  岩山が風に揺るがないように




(法句経より)



  信念を持って励む人になる。



  「 断れる 」  と、ガッカリ落ち込む人がいます。 好きな相手に交際を断れて。 お客さんに商談を断れれて。

  しかし、断られたからといって、落ち込まないで欲しいのです。 そこで落ち込んでしまうから、「 やっぱり自分はダメなんだ 」  と、どんどん自分を過小評価していく 「 心のクセ 」  がつくのです。



  このネガティブな心のクセがつくと、運勢が弱まってきます。チャレンジ精神を失って、今度は、相手に断られる前から、「 どうせ無理に決まっている 」  と、あきらめるようになるのです。 人生では、「 一度でうまくいく 」  ことなど滅多にありません



  昔、銀メダリストのオリンピック選手が、本を書きたくて出版社に企画を送ったそうですが、ことごとく断られたそうです。 しかし、彼女はあきらめずに何度も送り続け、なんと五十一社目の挑戦で、出版が決まったそうです。



   あきらめずに、一歩一歩、進んでほしいのです。 その積み重ねがやがて、「 どんな困難があっても、自分はやり遂げられる 」  という岩山のような信念となります。 たとえ好きな人に振られても、自分の魅力をわかってくれる人はいると信じて、次の出会いを探せばいいのです。






  自分自身への挑戦




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  心の筋トレで、意志を強くできます!





  自分自身に挑戦することによって、



  どんな激流がきても、押し流されることのない



  島のような 「 自分 」  をつくりあげなさい。




(法句経より)





  ナンバーワンよりも、自己ベストの更新を目指す。



  いきなりナンバーワンを目指すよりも、「 自己新記録 」  の更新を目指したほうが、「 いい結果 」  をだせるようです。 日本一になる!成果を十倍にする! 十キロやせる! などと、勇ましいチャレンジ精神を発揮するのは、評価すべきですが、あまりに自分の実力からかけ離れた高い目標を掲げると、途中で挫折する原因になります。



  それよりも、着実に 「 自己新記録 」  を達成していくほうが、後々の実りが大きいのです。 たとえば、いつもは週に一件、契約をとっている人は、翌週は二件、再来週は三件、その次は四件というように、毎日、毎週、毎月と、自分を着実にレベルアップさせていきます。そうすると、自己最高記録を更新するたびに、大きな喜びと達成感を得られます。 そしてそれは、次の目標へチャレンジするやる気をかき立ててくれ、好循環を生みます。



  成功体験が一つずつ積み重なって、最終目標の実現が、より具体的になってくるのを感じれば、楽しく挫折なんてしようがなくなります。



  自分自身への挑戦 .......... それが、揺るぎない島のような強い自分をつくりあげるのです






  本物の魅力



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  どこからくる? 「本物」 だけが持つ、人を惹きつける力





  成功者のなりをしているからといって、



  真の成功者なのではありません。



  ウソをつき、わがままな人は、真の成功者ではありません




(法句経より)





  「 オリジナリティー 」  を磨く



  大ヒット商品がでると、次々とそれをマネた二番煎じ商品がでてきます。 しかし、どれもオリジナル商品ほどにはヒットしません。 それは、モノマネ商品には、製作者の情熱や信念が、こもっていないからです。 それどころか、「 柳の下のドジョウで、儲けをわけてもらいたい 」  という、せせこましい根性や、成功を羨む気持ちが入っています。



  ですから、本物にはかなわないのです。 それは、人間も同じです。



  あこがれの人のしゃべり方や、服装、食べるものまでマネる人がいます。 目標とする人の考え方を学ぶのは無意味ではありませんが、見かけだけの魂のこもっていないモノマネでは、やはり世の関心を集めるのは無理でしょう。



  本物は、モノマネからは生まれません。 人のモノマネで、ノーベル賞を受賞した人もいません。

  世界が求めるのは、オリジナリティーのある人です。オリジナリティーを高めるコツを、いくつかアドバイスしておきます。



  人のやっていないことに興味を持つ。

  あまり観光地化されていない場所を、旅してみる。

  流行を追うのではなく、忘れられたものを見返してみる。

  自分の言葉で話す。






  死ぬときに、後悔しないために




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  「死ぬとき」 に、後悔しないために ...........





  高い地位を得るだけではダメなのです。



  自分が 「 満足いく人生 」  を実現させるのが、大切です




(法句経より)





  自分自身が 「 満足いく人生 」  を、送る。



  地位も収入もあって、裕福な生活をしているから幸せ ............. とはかぎりません。

  仕事で成功するとことが幸せになる道だと信じて、十数年も突き進んできて、ようやく思い通りの結果を手にしたとき、胸にぽっかり穴が空いたような気持ちになったという女性経営者がいます。



  「 今から十数年前、好きな人からプロポーズされたのに、仕事を選んでしまったのです。当時は、仕事に生きるには、妻をやっている暇などない、独身でいるべきだという考えがありました。 でも今思えば、私は間違っていたんだと思います。 仕事の成功も、女性としての幸せも、両方求めれば良かったと思います 」



  確かにその通りなのです。 夢を一つ叶えるために、もう一つの夢をあきらめるべきではありません。 もっと欲張って、いくつもの夢を追い求めればいいのです。



  すべてを手に入れる方法は、本当にないのか? 探してみましょう。



  人が死ぬ前に後悔することで一番多いのは、「 あれをやっておけば、よかった ........ 」  ということです。

  「 何かをしたこと 」  ではなく、「 しなかったこと 」  なのです。 すべての夢にチャレンジしてこそ、満足のいく人生が送れます。



  夢を一つもあきらめないことで、¨やり残したこと¨  のない人生を、送ることができます。






  いざというとき強い人




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  いざというとき強い人





  深い湖が澄んで、清らかであるように、



  賢者の心はいつも静かです。



  言葉づかいも静かで。行いも静かです




(法句経より)





  いざというときに備えて、力をためる。



  本当に実力がある人は、むやみに目立とうとはしません。 普段は、同僚、友人たちの後ろのほうに引っ込んで、おとなしくしています。 そして、いざというときのために自分を磨き、力を蓄えているものです。

  そういう人は、上深は深い海のように穏やかですが、心中では情熱を燃やしています。 ですから言葉は少なくても、存在感があります。 ゆっくりと構えているのに、実は忙しそうに駆け回っている人よりも、効率的に多くの物事を進めていたりするものです。



  波一つない湖面のように落ち着いた心でいると、様々なことが見えてきます。



  自分を取り巻く状況、周りにいる人への気持ちの揺らぎ、自分がその場で担うべき役割など、物事をいい方面へ進めるためにするべきことが、見えてきます。 ですからチャンスが来たときやピンチのときに、的確に力を発揮でき、大活躍できるのです。


 
  逆にいつも大声で賑やかに振る舞い、八面六臂 ( はちめんろっぴ ) であちこち飛び回るようにしていながら、いざ危機に陥ると、シュンと静かになってしまう人がいます。

  人の本当の力がわかるのは、「 いざというとき 」  です。

  ここ一番のときに、どう行動し、どう決断するかに、人の真価があらわれます。 チャンスやピンチのときに、力を発揮できるよう、普段は静かに力をためておきましょう。






  人を惹きつける美しさはどうしたら




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  人を惹きつける美しさを手に入れるには?





  清い心を持ちなさい。清い行いを心がけなさい。



  それが美しい身なりとなります




(法句経より)





  「 清い心と清い行い 」  が、美しい身なりとなる。



  あるモデルさんの言葉です。「 お金をかけていい服を着れば、きれいに見えるのは当たり前。誰にだってできるわ。しかしそれは、お金がないと実現しない美しさであって、幸せに生きることには、必ずしも直結しない。スーパーで買った一着千円の服でも、センスよく着こなして人目を惹きつけられるのが、本当のセレブなの。そのためには、心を美しくすることが大事よ。行いも大事ね。美しい雰囲気は、清らかな内面からでるから 」 



  内面の清らかさは、造形の美しさをしのぐのです。 人を惹きつける美しさは、日頃の行いによってつくられます。 人に慈悲深く接したり、人のためを思ってボランティア活動に参加したり寄付したり、社会貢献をするのもいいでしょう。



  心が清らかであれば、物の扱いも自然と丁寧になりますので、動作の一つひとつひとつが、人を心地よくさせる美しさへと変わっていきます。 食事にしても、 ( むさぼ ) らず、感謝して必要な分だけを食べるので、太ることもなく清潔感あるスタイルを保てるでしょう



  心を美しく保つことほど、体を美しく磨き上げる 「 美容法 」  はありません。

  心のすさんだ人が、いくら飾りたてても、心おだやかな人の澄んだ瞳、邪気のない表情、柔らかくあたたかい雰囲気には、かないません。





  もの惜しみをする人の人生は




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  ¨分かち愛¨を持っていますか?





  もの惜しみをする人は、天国へは行けません。



  人と分かち合う喜びを知る人は、幸せになれます。




(法句経より)



  自分の持つものの中から、分け与える。



  昔むかし、腹をすかせた旅人が、ある村の裕福そうな家の前を通りかかりました。 彼は門前に立ち、「 私はもう何日もものを食べていません。 少しでいいので、食べるものを分けてもらえませんか 」  と家の人に頼みました。 ところが、「 おまえに分ける食べ物などない 」  と追い払われてしまいました。 次に旅人は、いかにも貧しそうな家を訪ね、同じお願いをしました。 すると、貧しい家の人たちは旅人を快く迎え入れ、少ない食材を旅人に分け与え、ひと晩泊めてくれました。

  実は、この旅人は、旅の途中の神様でした。

  神様はのちに、裕福な家の人たちに病気を与え、貧しい家の人たちには富を与えたのです



  さて、この昔話が教えてくれるのは、「 人と分かち合うこと 」  に喜びを感じなさいということです。

  ものを惜しんで、困っている人にさえ差し伸べられないような人は、いくら今、たくさんのお金があっても、決して心が満たされることはないでしょう。



  なぜなら、今あるものより、今手元にないもののほうが気になってしまい、心が休ませるときがないからです。 ため込むよりも、分かち合うこと、人に与えることを優先すると、それがよい因縁となり、寂しい人生を送ることもなくなります






   命あるものを、大切に



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   命の重さを感じるトレーニング





  むやみに生き物を殺してはいけません。



  命あるものを、大切にかわいがりなさい。



  そうすれば、心を乱されることがなくなります




(法句経)





  命あるものを、かわいがる。



  命を大切にしていますか。

  ひとはもちろん、動物も花も、木も虫も、生きとし生けるすべてを、大切にする気持ちがある人や、他人にそういう行為をしない人は、救われます。 自分以外の命を大切にすることは、自分から命を大切にすることと同じです。



  まだ十代で自殺をはかるような少年少女たちは、自分や他人の命を大切にする気持ちが気薄である傾向が強いといわれています。 道端に咲いている花を踏みつけても平気だとか、他人がケガをしてもその痛みを推し量ることができないとか、中には、犬や猫のひげを引っ張っていじめる子どももいます。 命の大切さを知らないから、自分もほかの生き物の命も粗末に扱ってしまうのです。



  そんな子どもたちへのカウンセリングの一つに、花を育てさせることで、生き物の命を大切に扱う心を教える方法があります。 それは同時に、自分の命の大切さを知ることでもあります。
  もし、自分に存在価値がないと感じたり、生きるのが辛くなったりしたら、花を育てるといいでしょう。 日の当たる場所に鉢を置き、水や肥料をやりましょう。 手をかけなければ元気に育たないことを実感すれば、誰でも何かに生かされていることに気づくはずです。 何者かに愛情をかけられて、生きているということがわかるのです。





  「 ありがとう 」 は魔法の言葉です。



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   この「魔法の言葉」 を今日は何回言いましたか?





  「 清らかな、謙虚な気持ち 」  で話し、行動しなさい。



  そうすれば人間関係で、たくさんの 「 いいこと 」  に恵まれます。



  常に、よい影があなたにつき従うように。



(法句経)





  「 ありがとう 」 を言う回数を、増やす。



  あなたは今日、何度 「 ありがとう 」  と言ったでしょうか?

  気持ちは、態度にあらわれるものです。 豊かな気持ちが、豊かな行いを生みだすのです。 たくさんの人たちの助けがあって、今の自分がある。 一つの成功は、自分の力だけでなく、周りの協力があって成し遂げられたものである。



  そんな謙虚な気持ちに溢れている人は、誰に対しても腰が低く、まるで口グセのように 「 ありがとう 」  という言葉をたくさんつかうものです。 これは、それだけ他人の協力や気遣いに気づける力があるということです。 たとえば、「 昨日は、残業お疲れさま 」  「 お陰さまで 」  と労ってくれる人は、あなたの頑張りを感じていてくれたのです。



  誰でも親切にしたことに対して感謝の気持ちを返されたら、苦労が報われた思いがして、またその人を喜ばせてあげたいと思うでしょう。 こんな心遣いが行き交えば、お互いがたくさんの 「 いいこと 」  に恵まれます。



  「 清らかな謙虚な気持ち 」  で物事を見ると、人のやさしさや、多くの人の手を借りていることに気づきます。 「 ありがとう 」  を頻繫に言うようにすればするほど、それが良く見えるようになります。





  正しい 「 心のより所 」 とは




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  マジナイや、占いに頼ると、怖い!





  人は、恐怖にかられると、意味のないものや



  マジナイめいたものに頼りますが、



  それで心が安らかになることは、ありません。



  場合によっては、逆にたくさんの苦悩を味わう羽目になります。



  正しい 「 心のより所 」  をつくりなさい。



  正しい 「 心のより所 」  がある人は、安泰です




(法句経より)





  正しい 「 心のより所 」  をつくる。



  生きていれば、辛い経験もしなければなりません。 悩み、迷い、不安に心が折れそうになったとき、人は、神仏やお守り、怪しげな呪術などに、すがりたくなるものです。 ですが、それでラクになると思うのは間違いです。 何かに頼りたいという思いが、悪につけ入れられる原因となり、だまされたり状況を悪化させたりして、逆に苦しみを招きます。



  たとえば、病気になったとき、きちんとした医者にかからず、正しい生活することもなく、怪しげなマジナイなどに頼っていては、かえって健康を害して苦痛を味わう羽目になるでしょう。



  お釈迦様は、正しい 「 心のより所 」  として八正道 ( はっしょうどう ) を説きました。

  これは、「 正しい見解 」  「 正しい思い 」  「 正しい言葉 」  「 正しい行い 」  「 正しい生活 」  「 正しい努力 」  「 正しい心配り 」  「 正しい心の落ち着き 」  のことをいいます。



  要は、現実社会に生きるかぎりは、現状を正しく判断し、物事を論理的に考えて、自分ができることを精一杯自分でしなさい。 自分の良識を信じなさいということです。



  正しい 「 心のより所 」  があると、心を強く保つことができます。 怪しげな商品などにだまされることもなくなります。





  品格を上げるには




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  品格を上げるには、「安心」 「信頼」 「楽しみ」 という栄養が必要です





  心のより所がある人は、美しく成熟していきます。



  心のより所がある人は、美しく老いていきます




(法句経より)





  心のより所がある人は、美しく年をとる。



  年をとれば、肌の衰えや、足腰の弱りから逃げられる人はいません。 六十歳になれば、二十歳のようには、体は動きません。 肉体的な衰えはしょうがありませんが、年を重ねるごとに 「 美しさ.気品.活力 」  を増していくことは可能です。 そのヒントを三つあげておきましょう。



   プライベートで、一緒にいて安らげる人を持つ。

   仕事で、信頼できる人を持つ。

   趣味を、一緒に楽しめる人を持つ。



  この 「 安心 」  「 信頼 」  「 楽しみ 」  を分かち合える相手を持つことが、若さを保つために大切なのです。



  人から美しさを奪う一番の理由は、「 孤独感 」  です。 いざというとき頼れる人がいないという不安は、若さを蝕 ( むしば ) みます。



  人から気品を奪うのは、「 あの人は、自分をだますのではないか? 裏切るのではないか? 」  と人を疑う気持ちです。



  人から活力を奪うのは、幸せを分かち合う相手、話をする相手がいないという寂しさです。



  これらが欠けると、オシャレを楽しむ活力も気品も失い、あっという間に老けていきます。

   よき家族、よきパートナー、よき友人を持つことが大切です
 ... (転載記事) ... 。















  近年は大田区の中央八丁目から蒲田駅西口までの間 ( 徒歩20分 ) 擦違う人の言語👂が日本語でない人ばかりだ。日本語を話す人と擦違った “事” が殆ど無い。喜んで良いのか悲しんで良いのか判らないが事実である。国籍は判らないが肌の色はまちまちだ。インド人か中国台湾人かタイフィリピン人か或いはイランイラク人か多国籍多民族であることは間違いない ... 。

  国際化なんて死語と言っても過言ではないだろう。外国人に生活保護を受けさせるのは違憲だと訴えている政党も在るみたいだが日本語では通用しないと思う。恐らく英語でも無理かも知れない。日本は多国籍多民族の共生する国土と化している。“世界は一家人類皆兄弟” の名言を残した右翼の大物笹川良一さん ( 故人 ) の理想の国💢に日本は成ったのかも知れないのではと不肖小生も思います 。。。

  






  

   
posted by 石君 at 01:53| 東京 ☀| Comment(0) | 広 宣 流 布 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする