2020年05月31日

法華経の教え..


  上を向いて歩こうよ.. “法華経” も正にその通りの教えです ... 。





  第十九章  法師功徳品 ( 真の法師とは )






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  「法華経」の教えを弘める人はどんな人でも法師になれる



  教えを説き弘める功徳

  爾 ( そ ) の時に仏、常精進菩薩摩訶薩 ( じょうしょうじんぼさつまかさつ ) に告 ( つ ) げたまわく、若 ( も ) し善男子、善女人、是 ( こ ) の法華経を受持し、若 ( も ) しは読み、若しは誦 ( じゅ ) し、若しは解説 ( げせつ ) し、若しは書写 ( しょさ ) せん。是 ( こ ) の人は、当 ( まさ ) に八百の眼 ( まなこ ) の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌 ( した ) の功徳、八百の身の功徳、千二百の意 ( こころ ) の功徳を得 ( う ) べし。是 ( こ ) の功徳を以って、六根 ( ろっこん ) を荘厳 ( しょうごん ) して、皆清浄 ( みなしょうじょう ) ならしめん。

  真の法師とは

  この 「 法師功徳品 」  では、とくに 「 法華経 」  の教えを説き弘める人の功徳を説いている。ここで 「 法師 」  というのは専門の僧という意味ではない。ここでは 「 法華経 」  の教えを弘める人はどんな人でも法師になれる。法師とは教えの師であり、教えを人に説く人はすべて法師なのである。それは在家 ( ざいけ ) 者で普通の職業をもっており、家庭をもっている人でも、「 法華経 」  の教えを人に説くことができる人はすべて法師なのである。

  「 法華経 」  の教えのすばらしいことをほんの一つでも知って、どうしてもその教えを他の人々に聴かせたい、話したいという気持ちをもったならば、その人こそ真の法師というべき人なのである。この 「 法師功徳品 」  のなかに次の教文が見られる。

  またつぎに常精進 ( じょうしょうじん )、もし善男子 ( ぜんなんし )、善女人 ( ぜんにょにん )、この経を受持 ( じゅじ ) し、若 ( も ) しくくは読み、若 ( も ) しくは誦 ( じゅ ) し、若 ( も ) しくは解説 ( げせつ ) し、若 ( も ) しくは書写 ( しょしゃ ) せば、千二百の舌 ( した ) の功徳を得 ( え ) ん。

  これは 「 法華経 」  を受持 ( じゅじ ) し、読み、誦 ( とな ) え、解説 ( げせつ ) し、書写するという五種の修行をすれば、千二百の舌の功徳が得られるというのである。舌の功徳とは、一つは食べ物の味がよくなることであり、他の一つは、自分の説くことが大きな効果をあげることができるという功徳なのである。

  人間の舌の力は精神をきたえ、強烈な意志をもったとき、死して後にも大いなる力を発揮するのである。死後、遺体を焼いたら舌だけが残り、その舌が 「 法華経 」  の経文を読誦 ( どくじゅ ) するというすさまじい話がある。







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「法華経」を学ぶと、徐々に神通力が身についてくる


  無所畏 ( むしょい ) の心とは

  「 法華経 」  でいう法師とは、「 法華経 」  を受持 ( じゅじ ) し、読み、誦 ( じゅ ) し、解説 ( げせつ ) ( 説法 ) し、書写する人をいい、受持、読、誦、解設、書写の五つを実践する人であるから五種法師といわれている。

  第一の受持 ( じゅじ ) とは、「 法華経 」  の信仰をずっと持ちつづけてゆくことである。一回や二回だけ、「 法華経 」  の教えはよいな、と思うだけでは後は捨てて顧みることがないのは受持とはいわない。心の中にしっかりと信仰を持ちつづけてゆくのが受持である。どんなことがあっても、よい教えであると思ったならば、「 法華経 」  の教えをしっかり持ちつづけてゆかなければならないのである。

  第二の読むというのは、経文をまず読むことが大切である。読んだら第三の ( じゅ ) に進む。暗誦 ( あんじゅ ) することである。経文を暗誦することによって教えが身についてゆく。ここまでは自分の信仰を深め、教えを深く知るためのいわば自利行 ( じりぎょう ) である。

  第四の解説 ( げせつ ) とは、説法である。教えがほんとうに理解できると、心の中から深い喜びが湧きたってくる。そのためどうしてもまだ教えを知らない人にも教えを説きたくなる。それは教えを説かずにはおれない気持ちなのである。

  さらに第五の書写になると、「 法華経 」  の経文を写経したり、または教えを文章に書いて弘めることである。解説 ( げせつ ) や書写は利他行 ( りたぎょう ) になる。五種のなかの最初の三つは自分のため、後の二つは人のためにやることになる。

  この五種の法師の実践を正しく行ってゆくと、この人は眼や耳や鼻や身や意 ( こころ ) にさまざまな功徳がそなわることになる。この無限の功徳によって ( げん )、 ( に )、 ( び )、 ( ぜつ )、 ( しん )、 ( い ) の六根 ( ろっこん ) を清めることができるようになる。六根を清めるというのは、心が清らかとなるため、六根のはたらきが自由自在にできるようになることである。経文はまず六根清浄 ( ろっこんしょうじょう ) ということを説き、つづいて眼、耳、鼻、舌、身、意のそれぞれの功徳について語ってゆく。

  まず最初は眼の功徳である。われわれが 「 父母所生 ( ぶもしょしょう ) の清浄の肉眼 ( にくげん ) 」  をもって見れば、どんなものでも見ることができると説く。別に千里眼や透視能力をそなえる必要がない。父母からもらったこの自分の目で見よということである。その目が澄んでおり、清らかであれば三千世界の中にどんな山河も海も、下は無間地獄 ( むけんじごく ) から上は有頂天 ( うちょうてん ) の天上界までの、どんなものでも見ることができるという。その中に生きている衆生の業 ( ごう ) も因果も果報もすべて見通すことができる。心に曇りがあれば眼も曇る。心に一点の私心がなければ、眼も澄んでくる。昔から眼は心の窓といわれるように、人間は眼を見ればその程度がわかるものである。眼光炯々(がんこうけいけい)としてしかも澄みわたっている眼は偉人の眼である。

  清浄 ( しょうじょう ) の肉眼はありとあらゆるものが見えるというが、この肉眼は心眼でなければならない。二宮尊徳 ( にのみやそんとく ) は、肉眼で見えるものには限りがあるが、心眼を開いて見れば無限のものが見えてくると言っている。この場合、心眼で見るは、「 見 」  という字ではなく 「 観 」 ( かん ) という字を用いなければならない。その眼は明鏡 ( めいきょう ) のようであるため、どんなものでも映すことができる。経文は眼の功徳についてふたたび偈文 ( げもん ) で説くが、そのなかで、

  若 ( も ) し大衆の中に於 ( お ) いて、無所畏 ( むしょい ) の心を以 ( も ) って、是 ( こ ) の法華経を説 ( と ) かん、汝 ( なんじ ) 其 ( そ ) の功徳を聴 ( き ) け。

  と述べている。「 法華経 」  を説くには、「 無所畏 ( むしょい ) の心 」  が大切であるという。無所畏の心とは、どんな相手に対して少しも心がひるむことなく、どんな人にも同じように教えを説くことである。金持ちに対しても、権力者に対しても、貧乏人に対しても、同じように教えを説くことはむずかしい。自分に私心があり、やましい気持ちがあったならば、「 無所畏の心 」  はもてなくなる。

  「 無所畏の心 」  とは、怖がらないという意味ではなく、どこまでも相手を敬うことによって、どんな人に対しても同じように教えを説くこのできる人のことである。しかも自分の信ずるままに真っすぐ教えを説くことができる人のことである。








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その人の修行力によって........。


  香をかぎわける力

  つぎに経文は耳の功徳を説く。「 法華経 」  の教えの通りに実行していると、生まれながらのこの肉親の耳が 「 清浄の耳 」  になる。清浄の耳とは、世の中のどんなことを聞いても本当のことを聞き分けることができる耳である。この清浄の耳はあらゆる世界の人間ばかりでなく、動物の声も、天上界の神々の声も、菩薩の声も聞き分けることができるようになる。経文では、

  要 ( よう ) を以って以 ( これ ) を言わば、三千大世界の中の一切の内外のあらゆる諸々の声、未だ天耳 ( てんに ) を得ずと雖 ( いえど ) も、父母所生の清浄の常の耳を以って、皆、悉 ( ことごと ) く聞き知らん。

  と説く。「 未だ天耳 ( てんに ) を得ずと雖 ( いえど ) も、父母所生の清浄の耳を以って皆悉く聞き知らん 」  ということが重要なのである。これは耳だけではなく、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根すべてに通じることなのである。別に天耳、すなわち神通力を備えた耳を持っていなくても父母から受けた人間の耳でもその耳が清浄でさえあれば、ありとあらゆる声を聴くことができるというのが重要である。

  清らかな耳はどんな地獄の声を聞いても耳を損なうことはない。経文ではそのことを 「 耳根 ( にこん ) を懐 ( やぶ ) らじ 」  と説いているが、これも重要である。たとえば、地獄に堕ちて地獄のせめ苦を受けて苦痛にうめいている声や、餓鬼の道に堕ちたものが飢えと渇きにせめられて食べ物や飲み物を必死になって求めている声であるとか、阿修羅が大声をあげてわめいている声など、どんな罵声、悪声を聞いても決して耳を痛めることがないというのである。清浄な耳には菩薩や仏の説法の声が聞こえてくる

  五種の法師として修行を積んでゆけば、耳ばかりでなく鼻にもまた無限の功徳がそなわる。鼻というと香の世界を感じる唯一の機関である。香の世界は無限に広く深い。香水ひとつを取ってみても様々な香りがあり、香を修養の道具に用い、それを芸術にまで高めたものには香道があるほどである。香りや匂いが人間に及ぼす影響はあまりにも大きい。鼻の功徳ということは実は大切なことなのである。

  清められた鼻はあらゆる香りをかぎ分けることができる。美しい花、黄色い花、白い花、蓮華の花など、ありとあらゆる花の香をかぎわけ、さらに人間、象、馬、牛、羊、男、女、童子、童女など生きとし生けるもののすべてをかぎ分け、さらに人間界だけでなく、天上界の栴檀 ( せんだん )、抹香 ( まっこう )、曼珠沙華香 ( まんじゅしゃけこう ) などすべての香もかぎ分けることができるようになる。

  清潔な鼻というのは大切なことである。我々が真剣に読経していれば、読経の香りがその人の身辺にただよう。一心に勉強している人からは勉強の香がただよう。武道でも芸道でもひたすら稽古をするとき、稽古の香がただようのである。酒を飲んだり遊蕩 ( ゆうとう ) をしていれば淫猥 ( いんわい ) な香がただようことは当然である。

  人間には香がただようことを説いたこの 「 法華経 」  の教えは素晴らしい。その人の身辺にかんばしい香がただようのは、一にその人の修行力による。一にかかって、一つのことを究明しているか、していないかによる。全力をもって身体と精神を極限の状況まで朝鍛夕錬 ( ちょうたんせきれん ) しているとき、その人の全身からかんばしい香がたちこめるものである









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法華経を翻訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)


  深妙の法音

  つぎに経文は舌の功徳を説く。五種の修行をしたならば、舌に無限の功徳がそなわることを説く。舌の功徳とは前に述べたように二つある。一は食べ物の味がよくなること。一は自分の説法が多いなる効果をあげることである。第二には清浄な舌で説法すればどうなるか。聴衆はその説法を聞いて大いなる喜びと豊かな心を味わうことができる

  人間の声というのも大切である。その人はその人だけの声である。その人の著書を読んだのではあまり感心することもなく涙もでてこないのが、一度、その人の講演を聞くとその声につられて大いなる感動を得ることもある。その声によって理屈ではよくわからなくても本当にわかった気になることがある。文字は冷たいが、声は温かく血がかよっている。その声を聞いただけで、その人のためには生命を放棄しても良いと決心できることもある。

  一遍上人の念仏は 「 とうなれば、仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだ仏 」  の歌でわかるように、南無阿弥陀仏になり切った一遍上人の念仏の声は、迷える衆生には仏の声として聞こえたに違いない。
  経典を説法する人たちの中には、正しい教えを説いたという確信がなければならないのである。中国の仏教史上、翻訳史の上に一つのくぎりをつけた鳩摩羅什 ( くまらじゅう ) は、この 「 法華経 」  の翻訳者であるが、その羅什 ( らじゅう ) は自分の翻訳の正しさについて絶対の確信を持っていた。彼は死ぬとき、遺言した。もし自分の翻訳に誤りがないならば、身を焼いた後も自分の舌は焼けないようにしたい、と言った。その通り羅什の舌は焼けなかったといわれる。これは羅什の翻訳が正しいことを自ら確信していたから言えた言葉であった。

  すぐれた音声で無私の立場で教えを説くならば、どんな人もこの人の説法を聴きにくるものである。童女、夜叉、阿修羅などの天上界の人や動物も喜んで説法を聴く。地上の国王も仏教信者も、人民も皆教えを聴きに来る。
  正しい教えを清らかな心で説く人には、仏もその人のほうにむかって教えを説くようになる。そのようになると単なる自分の説法ではなく、自分の説法は仏といっしょの説法となる。かくして獅子奮迅 ( ししふんじん ) の大音声の説法がうまれる。このようになった説法の声は 「 深妙 ( じんみょう ) の法音 ( ほうおん ) 」  を聴いたとき仏もまたその相 ( すがた ) を現す。経文には

  諸仏 ( しょぶつ ) 及 ( およ ) び弟子、其 ( そ ) の説法の音 ( こえ ) を聴いて、常 ( つね ) に念じて守護し、或 ( あ ) る時は為 ( ため ) に身を現じたまわん。

  とある。清らかな確信に満ちあふれた説法が行われていると、仏はその説法者を守護することを念じてくれる。ある場合には身を現すこともある。日蓮大聖人の説法とはまさしくこのような物であったにちがいない。「 寿量品 」  にも、

  一心に仏をみたてまつらんと欲 ( ほっ ) して自らの身命 ( しんみょう ) を惜 ( おし ) まず。

  という言葉が見えたが、不惜身命 ( ふじゃくしんみょう ) の説法を続けてゆくならば、仏はその音声を観じて相 ( すがた ) を現すものなのである







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宝玉のような身体に(観音さまを見たら心が洗い清められてゆくように)





  身体に映すとは その1

  つぎに経文は身の功徳について説く。法師として五種の行を積んでゆけば、身に無限の功徳がつき、清らかな身となることができると説く。身が清浄になれば、その人のすがたを見ると、おのずと見た人の心も清められてゆく。よい例は優れた観音像や仏像を名刹 ( めいさつ ) のなかで見たときである。大和の聖林寺 ( しょうりんじ ) の十一面観音のお姿を見ていれば、自分の心が自然に洗い清められていく気がするものである。経文には、
 
  浄明 ( じょうみょう ) なる鏡に、悉 ( ことごと ) く諸の色像を見るが如く、菩薩浄身 ( ぼさつじょうしん ) において、皆、世の所有 ( しょう ) を見ん。唯 ( ただ ) 独り自 ( おのず ) から明了にして、余人 ( よにん ) の見ざる所ならん。

  とある。清浄な身にあらゆるものが映現 ( えいげん ) するのは、浄 ( きよ ) らかな鏡にすべてのものが映るようなものであるという。清浄な身体にすべての物が映るというのが大切である。ちょうど身体が清浄な鏡やスクリーンのようになる。

  身体に映るというのが宗教では重要なのである。目や心に映るのではなく、身体に映るとはどういうことか。身体が五種の法師の修行を長い間行ってゆくと、身体は単なる物質ではなくなってくる。それは霊的存在となる。身体は修行によって無限に感度と純粋度を高めてゆくことができる。身体を朝鍛夕錬 ( ちょうたんせきれん ) することによって鍛えてゆくならば、宝玉のような身体となる。身体がありとあらゆるものを感じるようになる

  意識は眠っていても、身体はどんな微細な気にも感応するようになる。身体が霊妙な働きを備えるに至る。座禅の修行も、武道の修行も、身体を霊妙にするためのものである。身体を朝鍛夕錬することによって、身体には宇宙の生命、大地の気が感応するようになる。仏の生命が乗りうつるようになる経文はあり得ないことを述べているのではない。これはやれば必ずそうなることを説いているのである。










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不惜身命(ふしゃくしんみょう)の説法とは


  身体に映すとは その2

  最後に ( こころ ) の功徳が説かれる。 経文は

 この清浄の意根 ( いこん ) を以 ( も ) って、ないし一偈一句を聞くに、無量無辺の儀を通達 ( つうだつ ) せん。

  と、説いている。清浄の意根とは、すっかり煩悩や迷いがなくなった清らかな心である。このような清らかな心で経文の一偈(いちげ)でも一句でも聞けば短い文句でも、はかり知ることができない無量無辺の深い意義がわかるようになる。

  このようにお経の一偈、一句の深い意味が分かったならば、これを人に向かって説かなければならない。そのわずか一句の意義を解きあかすために、一か月でも四か月でも、さらには一年かかっても、なお 説くことは無限にある。このようにして説くところは仏のお説きになった趣旨と違うことはなく、また諸法の実相、すなわち宇宙の心理に背くことがないのである

  このような清らかな心を持つと、あらゆる世界の衆生の心の動き、心のはたらき、心が求めているもの、すべてを知ることができるようになる。仏のような全く煩悩のない智慧までは到らないものであっても、ただ心を清らかにしただけで無限の功徳がそなわるのである。仏法に叶い、真実のことを話すものは強い。 経文には

  この人の所説あるは、皆これ先仏の法ならん。この法を演 ( の ) ぶるを以っての故に、衆に於いて畏 ( おそ ) るる所なけん。

  と、説かれている。このような人の説法は、ただこの人だけが語っているのではなく、多くの仏が語っていることになる。こうなると、この教えを説く人は何ものも畏れるものがなく、不惜身命の説法ができるようになる。このようになれば、梵天にも帝釈天にも海にも、恐れることなく教えを説けるようになる。新羅 ( しらぎ ) の縁光 ( えんこう ) が帝釈天と海神に教えを説くことができたのは、この力による。

  この 「 法師功徳品 」  では法師の行うべき五種の修行を実行してゆけば、眼、耳、鼻、舌、身、意六根清浄にすることができるようになり、その清らかな六根には無限の功徳が備わることを説いた

  この品では 「 法華経 」  を信じる功徳の大きいことを説いているが、世の中には 「 法華経 」  信じない者もいる。そういう人にはどうしたらよいか。「 法華経 」  を信じていない人でも 「 法華経 」  を信ずることができるような本性を備えているのである。 「 法華経 」  を非難する人でも、その人を憎んだり軽蔑してはならない。

  次回から、第二十章 常不軽菩薩品に入ります
 ... (転載記事) ... 。














  昭和3114日の夕刻。山本伸一は、関西本部前の街路に立っていた。伸一は、3万世帯の学会員の関西で、参議院選挙の新人候補を押して7月の国政選挙戦うことになっていた。しかし、関西の創価学会員は、皆、信心歴浅く、闘わずしてすでに甚だしい劣勢に置かれていた。大阪地方区における当選ライン20万票であった。不可能にしか思えない選挙を、山本伸一は前年の秋以降、その勝利決し準備を進めてきた。不可能を可能にする戦い要諦とは何か。山本伸一は覚醒する。
   日蓮大聖人の仏法が真実であるなら、私にも、それが証明できないはずがない。『 なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし 』 ( 1193頁 ) とあるではないか  彼は、戦い第一歩
   勝利  から逆算した。そして、目的成就は、
   信心を根本とした歓喜あふれる弘教  によって果たされゆくことを確信した。彼は、深い祈り教学を通じて、この偉大仏法教授することから開始した。山本伸一は一人立った。そして、学会員と会い、苦労を聴き、一人一人の信力奮い立たせ、深刻個々の問題を乗り越えさせていった。彼は、
   強盛な祈り  を第一の要諦とし、
   最高の作戦  と
   最高の行動  を第二の要諦とした。この2つ調和した不可能可能となる。
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日蓮大聖人の仏法は、「  」 に尽きる。
日常の行なくして、光明はたちまち消え失せる。
行すれば行じただけ、その結果は、過不足なく現れざるを得ない。
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  祈り学び。そして、決意行動仏道修行実践は、必ず、明確に現証となって現れることを伸一は語った。関西の同志奮い立った。社会の底辺経済苦や苦に沈む人々、さらに不運虐げられた人々を救済するために烈々たる行動を開始した。ある者は、朝5時に起床、7時まで唱題。退社からは、深夜に至るまで活動した。ある者は、1年間に100世帯も折伏した。歓喜怒涛となった。大阪支部は、49002世帯、さらに5月、11111世帯の折伏となって爆発した。この折伏は、中国地方、四国へと伝播した。612日に選挙告示され、78日に投票となった。79日、創価学会推薦した候補は、定員3名の第3位で見事当選した。不可能可能とした
   まさかの勝利  は、山本伸一が億劫辛労尽くし結果である。東京に向かう飛行機の中で、伸一は振り返った。
   苦しいといえば、あれほど苦しい戦いもない。嬉しいといえば、あれほど嬉しい戦いもない。苦楽というものは、本来一つのものなのかも知れない‥  選挙を終えた伸一は、戸田城聖に次のように質問している。
  「 本来の宗教活動が、政治的野心をもつように世間に誤解されることは、長い未来を思うとき、創価学会にとってプラスなのでしょうか。それとも、マイナスでしょうか  戸田は答えた。
   避けて通ることはできない。広宣流布とは、人間社会の土壌を深く耕し、豊かな稔りある土壌に変えることにある。そのために政治の分野にも、真の政治家育成することがこれからの課題  と
 ... ( 人間革命より転載 ) ... 。



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  信つ”る者は救われる。でも何を信じるかで “生命” の “善悪” が決まる。“心” 一つの置き処、生まれてから死ぬまで床から起き上がれない人も、世界中を駆け回る人も、一生は終わってみれば一瞬だ。50歳で死ぬのも100歳で死ぬのも死ぬ瞬間は一緒だ。大事なのは “法華経” を読んだか読まなかったか日蓮大聖人仏法に帰依したかしなかったかに尽きると不肖小生も思います 。。。





  
posted by 石君 at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | 広 宣 流 布 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月30日

法華経の教え..


  あらゆる宗教の粗・模範となっている “法華経” だからこそ “諸経の王” と云われる所以です ... 。




  第十八章  随喜功徳品 ( 教えに随喜するとは )







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  「法華経」の教えを聞いてほんとうにありがたいと思う心「初随喜」



  仏 ( ほとけ )、弥勒 ( みろく ) に告 ( つ ) げたまわく、我 ( われ ) 今 ( いま ) 分明 ( ふんみょう ) に汝 ( なんじ ) に語る。是 ( こ ) の人、一切の楽具 ( らくぐ ) を以 ( も ) って、四百万億阿僧祇の世界の、六趣 ( ろくしゅ ) の衆生に施 ( ほどこ ) し、又、阿羅漢果 ( あらかんが ) を得 ( え ) せしめん。所得 ( しょとく ) の功徳は、是 ( こ ) の第五十の人の法華経の一偈 ( いちげ ) を聞いて、随喜 ( ずいき ) せん功徳には如 ( し ) かじ。百分、千分、百千万億分にして、其 ( そ ) の一にも及ばじ。乃至 ( ないし ) 算数 ( さんじゅ ) 譬喩 ( ひゆ ) も知ること能 ( あた ) わざる所 ( ところ ) なり。

  教えに随喜するとは

  前章では 「 分別功徳品 」  を説いたが、「 分別功徳品 」  では教えを他人に弘める功徳を総論的に説いたので、これからつづいて 「 随喜功徳品 」 ( ずいきくどくほん ) 「 法師功徳品 」 ( ほっしくどくほん ) と 「 法華経 」  の教えを弘める功徳が詳しく説かれてゆく。

 「 随喜功徳品 」  では 「 初随喜 」 ( しょずいき )  の功徳を詳しく説く。教えに喜んで随 ( したが ) うということがいかに大切であるか説き示すのが 「 随喜功徳品 」  である。「 随喜 」  というのは喜んで随うことである 「 ありがたい 」  と感じることである。

  現在の世の中では、「 ありがたい 」  という気持ちがほとんどなくなっている。日常の生活においても、朝、元気で起きられれば、ありがたいのである。食事をおいしくいただければありがたいのである。満員電車に乗っても職場を持つことができるのはありがたいことなのである。さらに言えば、悪いことに出会っても、考え方をかえればありがたいという気持ちになる。病気になっても、これは私の体を仏が休ませようとして入院させてくれたのだ、と思えばありがたいという気になる。どんな逆縁でもありがたいと感じることができる人は仏心を持った人である。

  凡人であれば、逆縁を恨む、人を恨む。世間を恨み、不平不満を言う。極端には人を殺すようにもなる。しかし、修行を積み、人間を鍛えあげてゆけば、どんな逆縁もすべてありがたいと思うことができる。死ぬことですらお迎えをありがたいと思うことができる念仏者もいたのである。

  このように随喜というのはどんなことにも喜んで随うことであるが、凡人には至難なことである。「法華経」 の信仰でいう随喜の意味ならばわれわれでも心の持ち方によって少しづつは実行できることである。仏の教えをきいてありがたいと思うことが、「 随喜功徳品 」  でいう随喜の意味なのである。

  「 分別功徳品 」  で、すでに説かれたように、世尊が入滅された末世の世の中において五つの信仰の持ち方すなわち 「 末後の五品 」 ( まつごのごぼん ) ということが説かれたが、その中でもっとも初歩的な信仰のあり方が 「 初随喜 」  なのである。
  「 初随喜 」  とは心から本当に仏の教えを信じることができるようになった最初の状態のことである。その随喜の功徳が大変大きいことをこの品で説き明かしている。仏の教えを少しでも実行することを喜びとする、これが随喜の本当の意味である。実行することによって大いなる喜びが生まれてくる。

  この 「 随喜功徳品 」  においては、「 法華経 」  の教えを弘めるものには大いなる功徳があることが説かれるが、教えを弘めるということも、自分がほんとうに仏の教えに随喜できた体験がなければ、これを人に弘めるエネルギーは出てこない

  教えをほんとうに弘めることができる力をもつには、自らが随喜の感動を味わなければならない。自ら本当に 「 法華経 」  の教えを知ってよかった、「 法華経 」  の教えを少しでも実行してよかった。ありがたかった、という体験がなければ人に弘めることはできないものである。「 法華経 」  の行者とは 「 法華経 」  の教えを実行する人のことである。

  それと同じように、「 初随喜 」  ということが重要であり、「 法華経 」  の教えを聞いてほんとうにありがたいと思い、次にどんなことがあってもこの教えを実行し、一度自分が実行したならば、どんな困難や迫害があってもこの教えを人に弘めるというのが 「 初随喜 」  ということである。







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この世の人間は、千差万別であって同じ人は一人もいない。



  力に応じて説く

  この 「 随喜功徳品 」  の質問者は弥勒菩薩である。弥勒菩薩が仏に 「 この 「 法華経 」  の教えに随喜するものにはどんな功徳、どんな幸せがありますか 」  と質問した。まだまだ疑っている者がいるので、弥勒菩薩が大衆に代わってこのように質問したのである。しかも 「 世尊滅度の後に 」  とことわっているので、世尊が入滅したのちに 『 法華経 』  の教えに随喜すればどんな功徳があるのか、と言っているのである。

  これに対して、仏は弥勒菩薩に答えた。如来の滅後に仏教を少しでも信じる者は、たとえ年を取っていても、年が若くても、この 『 法華経 』  の教えを聴いて随喜する者はどんな人でも僧坊や、閑静な住宅街や、都の賑やかな町や田舎の村へ行き、その聴いた教えを父母、親族、友人、知り合いなどに自分の能力に応じて演説したとしよう。そうすれば、この教えを聴いた人が随喜してさらにこの教えを弘めることになる。

  またその教えを聴いた人がさらに随喜して教えを弘め、五十番目の人々に及ぶとしよう。この中で経文は

  其 ( そ ) の所聞 ( しょもん ) のごとく、父母 ( ぶも )、宗親 ( しゅうしん )、善友 ( ぜんゆう )、知識の為に力に随って演説せん。

  と書いているが、この経文の中には二つの大切な言葉がある。

  一つは 「 其の所聞のごとく 」  であり、他の一つは 「 力に随って演説せん 」  ということである。
  「 法華経 」  の教えを聴いて誤りなく自分が聴いた通りを人に伝えることは容易なことではない。聞いた通りに人に伝えるということは、極めて簡単なようであるが、実際は難中の難なのである。

  次の 「 力に随って演説する 」  ということも大切である。自分の能力に応じて教えを説くのがよく、あまり背伸びして説いてもかえって相手は理解してくれないことがある。といって、いい加減に説いてはならない。
  どんな人に対しても全力を傾注して説かなければならない。
  人から人へ随喜の心が生じるように、仏の教えを説くのであるが、第五十番目に教えを説き随喜の心を起こした人の功徳を次のような比喩によって説明する。

  あらゆる生命のある者にはその欲するところに随ってそのものに楽しみを与えるべき物を与えると説く。教えを聴くものの中には、ありとあらゆる人間がいる。善い人間もいれば悪い人間もいる。教育程度の高い人もいれば低い人もある。この世の人間はそれこそ 千差万別であって同じ人は一人もいない。このような千差万別のどんな人でもその人なりの欲求を持ち、その人なりの願いを持つ。まず、物を与えることによって、それらのどんな人の願いもかなえてやるというのである。

  それは人間だけでない。ありとあらゆる生きとし生けるものに対して仏はその欲するところに従って願いをかなえてくれるというのである。犬は犬なりに、猫は猫なりに、生きているものにはそれぞれの欲求がある。その願いを満足させろということはたいへんな思想である。

  仏の教えを聴いて随喜する生きとし生けるものには、金銀、瑠璃(るり)、瑪瑙(めのう)のような美しい宝石を与える。あるいは象、馬、車、七宝で飾った住家を与えると説く。
まず、物を与えて喜ばす。これらの立派なものをもらった衆生も、やがて80歳を過ぎれば髪は白くなり、しわが多くなり、死期も近づいてくる。そこで仏はこれらの衆生に教えを与えようとした。物をもらっただけでは単に欲望を満足させただけで終わる。仏教では布施(ふせ)には財施(ざいせ)と法施(ほっせ)がある。財施とは物を与えること。法施は教えを与えることである。財施は物を法施は心を与えるのである。

  物を与えた後に教えを宣布し、教えを示すのが仏教徒の布施のやり方である。与えられた財施を真に生かすには法施がなければならない。このような法施を受けた衆生は、小乗の修行の結果である阿羅漢道 ( あらかんどう )=最高の悟り に入ることができ、この段階に達すると、あらゆる煩悩がなくなり、深い禅定のなかに入り解脱を得ることができるようになる。

  仏はこのようなたとえ話をしてから、財施や法施を衆生に与える施主の功徳というものはどのように多いものであろうか、と弥勒菩薩に質問した。彌勒がいうには、「 それはたいへんな功徳であります。物をもって生きとし生ける衆生を満足させるばかりでなく、教えをもって人の煩悩を取り除くのであるから、その功徳たるや無量無辺であります。 」  と答えたのである。







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利根(りこん)にして智慧ある人とは。


  円満な人格とは

  ところがこのような大功徳よりも、第50番目に法華経の教えの一偈を聴いて随喜する人のほうが功徳が大きいという。仏は彌勒に明言した。この施主が大勢の人々にものを与え、さらに教えを説いて最高の教えを得させたとして、その功徳は 「 法華経 」  の教えを語り聞いた第50番目の人が、経文のたった一偈を聴いて、ありがたいと思った功徳に比較すると百分の一、千分の一、百千万億分の一にも及ばない、と仏は断言されたのであった。

  小乗の教えを聴いて悟りを開くよりは 「 法華経 」  の教えを一句でも聴いて、これを実行する方がはるかに立派であると明言したのである。小乗の悟りは自分の完成、「 法華経 」  の教えは利他のために生き、他人のために実行する教えであり、その功徳は小乗の最高の悟りより勝る、というのである。

  第50番目に 「 法華経 」  の教えの一偈を聴いてありがたいと思って実行する功徳でさえも無量無辺のたいへんな功徳であるのに第1番目に教えを聴いて随喜する人の功徳は、何ものにも比べることができないほど大きい。最後の人でもたいへんな功徳であるのに最初の人の功徳はどんなに多きいことか。この50人まで伝え伝えていったその功徳がたいへんに大きいという意味で、この経文の箇所を 「 五十展転 ( てんでん ) の功徳 」  と昔から呼んでいる。

  経文はつづいて聴法の縁を与えることを説く。「 法華経 」  を説いているところに人が入ってきたのを見て、どうぞここへおかけになって教えをお聞きください、といって自分のそばで教えを聴かせる。
  もし、座る場所がなければ、自分の腰掛けている場所を半分与えて教えを聴かせてあげるならば、この人の功徳は帝釈天や梵天のいるところに生まれることができると説く

  誘われて教えを受けた人の功徳は陀羅尼菩薩 ( だらにぼさつ ) とともに生まれ住むことができる。陀羅尼菩薩とは、人に善いことを実行させ悪いことをやめさせる菩薩のことである。

  人に善い縁を与える功徳は大きい。人に教えを聴くことを勧められる人は、「 利根 ( りこん ) にして智慧ある人 」 である。人に勧めることができるには自分が教えを深く知ろう。深く極めようという利発さが必要であり、自分がわからなければ、決して人に勧められるものではない。智慧がありもっともっと「法華経」の教えを知りたいという熱意のある人であるからこそ、人に勧めることができるのである








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悪鬼や悪霊も法華経には太刀打ち出来ない!


  正しい修行とは

  「 法華経 」  の教えを他人に聴くことを勧めただけでも、大いなる功徳を得ることができる。
  まして一心に聴き、一心に説き、一心に読誦 ( どくじゅ ) し、さらに大勢の人々の中に入って細かく説き分けて、その教えを実行するならば、その功徳がいかに大きいかを、仏は彌勒に観ぜよ、とお命じになった。観ずるということは単に見るのではない。心でしっかりと念 ( おも ) うことである。真理を心で念うことである。じっとその真相を見分けることである。

  まず一心に聴くこと。聴かなければその教えはわからない。
  次には他の人に自分の力に応じて一心に説くことである。さらに一心に読誦することである。

  かつて習い覚えた 「 法華経 」  を一心に念誦 ( ねんじゅ ) していた若い僧が、悪鬼から逃れることができた話もある。

  ここで大切なのは 「 一心 」  ということである。一心とは無我の心ということである。そこに私情が少しでもあってはならない。一心に説くことは相手と一つになって説くことにもなる。相手と自分の心がまったく一つにならなければ一心には説けない。一心に説くだけではだめで 「 説のごとく修行せんをや 」  とあるように、教えのとおりに実行することによって完全となる。随喜の心は実行によってこそ本当にその精神が示されるのである。

  修行にもいろいろある。武人が相手を殺すことだけ考え、殺人刀を鍛錬していればその剣はついには魔剣となり邪剣となる。沢庵禅師の 「 不動智神妙禄 」、は当時の剣が人を斬るためだけの邪剣に堕し、魔剣に陥っていたのを正すために、当時の徳川家の指南役である柳生宗矩 ( やぎゅうむねのり ) のために書かれたものであるが、剣の道と禅の道がまったく一つであり、その究極の目的とするところが 「 剣禅一如 」 ( けんぜんいちにょ ) であり、「 とどまる心 」  すなわち煩悩、執着をたち切ること剣の道としなければならないことを説いた。

  宗教の修行においても、ただひたすら坐禅を組めばよい。念仏をすればよい。題目を唱えればよいというものではない。「 如説修行 」 ( にゅせつしゅぎょう ) とあるように 「 法華経 」  の教えに従って、教えの通り修行するのでなくては、悪魔や、悪鬼や小乗の羅漢 ( らかん ) にはなれても、仏にはなれない









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「法華経」 には、因縁が熟さなければ遭うことはむずかしい!


  千万劫 ( せんまんごう ) にも遭い難し

  経文は今まで説いたことをふたたび偈文 ( げもん ) で説く。ほとんどその内容は同じであるが若干その表現においては異なるところがある。たとえば、大施主があって、まず、財施 ( ざいせ ) を与え、次に死期の迫った人に法施 ( ほっせ ) を与えることが前にも説かれたが、そのなかに、

  我今 ( われいま )、応当 ( まさ ) に教えて、どうかを楽しむべしと念 ( おも ) うて、即ち為に方便して、涅槃 ( ねはん ) 真実の法を説かん。世は皆、牢固 ( ろうこ ) ならざること、水沫 ( すいまつ )、泡焔 ( ほうえん ) のごとし。汝等 ( なんだち )、ことごとく応当 ( まさ ) に疾 ( と ) く厭離 ( おんり ) の心を生 ( しょう ) ずべし。

  とある。この大施主は死期の迫った衆生に法施 ( ほっせ ) をほどこすにあたり、「 世は皆、牢固 ( ろうこ ) ならざること、水沫 ( すいまつ )、泡焔 ( ほうえん ) のごとし 」  と説いた。これは世の中のものはすべて水泡のようなもので、無常なることを教えたものである。「 諸行無常 」 ( しょぎょうむじょう ) を説いて、この世を厭 ( いと ) い、この世を捨て去り、涅槃 ( ねはん ) の世界に入ることを教えたのである。しかし、この悟りは小乗の阿羅漢 ( あらかん ) の悟りである

  阿羅漢 ( あらかん ) の悟りは、自分だけの煩悩 ( ぼんのう ) を除く、世間の繋縛 ( けばく ) を一切たち切る。自分だけ安泰の世界に入ればよいのであって他人はどうでもよい。これは一種の世捨て人の哲学であり、傍観者の思想である。現代の世の中に生きているわれわれは捨て去ろうと思っても、世間の繋縛 ( けばく ) である妻子、職業などをそう簡単に捨てきれるものではない。そのつながりの泥沼の中で生きてゆくのが人生の真相である

  世間を無常と観じて逃避することができないわれわれは、一体、どんな教えに従えばよいか、そのとき、燦然 ( さんぜん ) として真理の光を放ってくれるのが 「 法華経 」  の教えなのである。「 法華経 」  の教えを聴いた第50番目の人が、経文の一句だけ聴いて、ありがたい、この教えを実行しようと、随喜 ( ずいき ) の気持ちを起こせば、この功徳のほうが阿羅漢の悟りを得た人よりもずっと勝っているのである。まして初めて教えを聴いた人や、他人に教えを聴かせようとする人の功徳は大きい。
  経文は、

  若 ( も ) し一人を勧めて将引 ( しょういん ) して法華を聴かしむることあって言わん、此 ( こ ) の経は深妙 ( じんみょう ) なり、千万劫 ( せんまんごう ) にも遭 ( あ ) い難しと。

  と言う。このなかで重要ななのは 「 此の経は深妙なり、千万劫にも遭い難し 」  という言葉である。仏の教えに遭うことのができるのは、ほんとうに不思議な因縁によることが説いているのである。妙法(みょうほう)に遭うことは難中の難である。現在、禅宗などで葬式や法事のとき、僧がお経をあげる前に 「 開経偈 」 ( かいきょうげ ) というものを唱える。

  無上甚深微妙 ( むじょうじんじんみみょう ) の法は、百千万劫にも遭遇 ( あい ) 難し、我 ( わ ) れ今見聞 ( いまけんもん ) する事を得たり。願わくは如来の真実義 ( しんじつぎ ) を解 ( げ ) し奉 ( たてま ) つらんことを。

  この 「 開経偈 」  の大意は、「 仏法にめぐり遭うことはまことに稀 ( まれ ) なことであり、因縁が熟さなければ遭うことはむずかしいにもかかわらず、いま仏のみ教えである経典に接することができた。この出会いの歓喜によって、自分は如来の真実の教えを体得するのである 」  という意味である。

  この 「 開経偈 」  は、すぐれた仏法の教えに遭うことの感激を述べているのであるが、それは、この 「 法華経 」  の 「 随喜功徳品 」  の 「 此の経は深妙なり、千万劫にも遭い難し 」  という経文とまったく同じことを言っているのである。









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「法華経」の功徳は、計り知れない!


  まがれる心なし

  「 随喜功徳品 」  の末尾は次の偈文 ( げもん ) で終わる。

  ※何 ( いか ) に況 ( いわん ) や一心に聴き、其 ( そ ) の義趣 ( ぎしゅ ) を解説 ( げせつ ) し、説 ( せつ ) の如 ( ごと ) く修行せんをや、其 ( そ ) の福 ( ふく ) 限 ( かぎ ) るべからず。

  一生懸命に仏の教えを聴いて、その意味が充分にわかって、その通りに、その教えのほんとうの意味を人に説いて聴かせ、人のために説くばかりでなく、自分自身もこれを実行するならば、その人の得られるであろう福徳は無限であるという。ここでも 「 如説修行 」 ( にょせつしゅぎょう ) ということが説かれるが、仏の教えのままにこれを実行するためには、あくまでも私心があってはならない。教えを説かれて、その通りに実行できる人とは、幼児のような純粋の気持ちを持った人でなければならない

  日蓮大聖人が妙密 ( みょうみつ ) 上人に与えた 「 妙密上人御消息 」  のなかに次の言葉が見える。

  経 ( きょう ) のままに唱えれば、まがれる心なし。当 ( まさ ) に知るべし、仏の御心 ( みこころ ) の、我等 ( われら ) が身に入 ( いら ) せ給 ( たま ) わずは唱 ( とな ) えがたきか。

  題目を唱えるときも、「 法華経 」  を読誦 ( どくじゅ ) するときにも、経の通りに唱えれば、邪悪な心はすべて雲散霧消し、「 まがれる心なし 」  となる。どうして 「 まがれる心 」  なく唱えることができるようになるのか。それは仏の御心 ( みこころ ) が自分の身の中に入るからである。仏の御心 ( みこころ ) のままに自分の心になることができて、初めて 「 まがれる心 」  なくして随喜 ( ずいき ) の心でお経を唱えることができる

  お経の通りに無心になり、純粋になり、何らのまじりけがなくて唱えていけば、まがれる心はなくなる。もろもろのけがれもおのずと消え失せてゆく。それは仏の御心 ( みこころ ) がこの体の中に宿ったからである。教えを聴くことも同じである。仏縁を得て仏の教えを聴こうという気持ちになったときには、「 まがれる心 」  はなくなる。仏の御心 ( みこころ ) のままに自分の心がなったからである。仏の御心 ( みこころ ) を己の心とするとき、おのずと経文を読誦 ( どくじゅ ) し、おのずと唱題することができる。仏の御心 ( みこころ ) をわが心とするとき、「 如説修行 」  することができる。

  この 「 随喜功徳品 」  は 「 法華経 」  の教えを聴いて、ありがたい、と感じ、その通りに実行する随喜の功徳を説いたものであるが、その功徳は小乗の最高の悟りよりも上であるという。しかし、その功徳を得るためには一心に教えを聴き、人をして一心に聴かしめ、教えの通りに実行しなければならない。日蓮大聖人の 「 妙密上人御消息 」  のなかに唱題功徳が次のように述べられている。

  国中の諸人 ( しゅにん )、一人二人、乃至、千万億の人、題目を唱うるならば、存外に功徳、身にあつまらせ給べし。其 ( そ ) の功徳は、大海の露をあつめ、須弥山 ( しゅみせん ) の微塵 ( みじん ) をつむが如し。

  一人でも二人でも、ないし千万億の人でも、題目唱えるならば、はかり知れぬ功徳がこの身に集まるという。教え一句だけ聴いただけでもたいへんな功徳があるのであるから、題目唱えるならば無限の功徳が生まれるはずである。その功徳は少しずつ積み重ねてゆかねばならない。それはあたかも小さな露が集まって大海となり、小さな微塵 ( みじん ) が集まって須弥山 ( しゅみせん ) のような高山になると同じである。

  「 随喜功徳品 」  の功徳も、一つ一つの教えの通りに実行して初めて得られるものである。どこまでも教えを聴いて、ありがたいという気持ちをおこすこと、その気持ちがおこったならば、無心になり、まっすぐな気持ちで教えを実行することである 

  次回から、第十九章、法師功徳品 ( ほっしくどくほん ) に入ります
 ... (転載記事) ... 。














  昭和29年。創価学会は、大地からが一斉に萌え出すが如く、急成長を果たした。この年、創価学会は15万世帯へと拡大。さらに翌年は、30万世帯へと急増した。戸田城聖は、組織成長伴い、山本伸一を始めとする精鋭の青年部の育成注いだ。戸田は、伸一を参謀室長に任命した。伸一は誓った。
  「 全学会、全青年部の推進力になる  と。昭和29年5月9日。大粒の雨が降りしきる富士大石寺に、男女青年部5500名が集結していた。青年部が見つめる先に戸田城聖がいた。戸田は、
   拡大する創価学会の前途にが巻き起こることは必定である 」 と語った。ずぶ濡れの青年たちは、お互いにしずくを絞りあいながら誓い合った。
   前途は多難であろう。しかし、それを絶対に乗り越えてみせる!  戸田は、式典終了後に伸一に告げた
  「 10月にもう一度、青年部に総登山をしたらどうか。今度は1万だ。できるか?  伸一は瞬時に答えた。
  「 できます。かならずやります。10月には、見事な総登山をお目にかけます  入梅し、灼熱の夏が過ぎた。10月31日、晴天の富士に、総勢1万名の青年男女が集った。男子6308名、女子4082名。総勢1390名であった。戸田は語った
   青年諸君!現今日本宗教界を見るに、幾多の宗教がある。あるものは営利目的であり、あるものは伝統の惰性に生き、どれ一つとして人間を幸福にし、安定させ、強い生命力を与えるものではない。他宗教妥協をこととしている。つきつめてみようとしない他宗は、卑劣な宗教であり、惰弱な宗教とういわなければならない。我々の前途が多難であることは火を見るより明らかなことである。されば諸君は、御本尊信仰し、創価学会愛し、しこうして青年の力を存分に蓄えてほしい!  1万の青年たちのマグマのように沸騰した。ひきしまった万雷拍手‥。戸田は、1万の青年に囲まれていた。この青年たちが、未来学会作るのだ
 ... ( 人間革命より転載 ) ... 。




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  もう15〜6年前になるけど “座談会” で婦人部幹部が  次の先生が誕生することなの  と力説。その空気が懐かしく想われてなりません。“法” の実践より所謂 “生活” の方向に重きを置くことで自ずと世間的に惰性が生じ “価値創造” の働きが止まってしまっては悔いが残る。新コロ明けのタイミングに原点回帰し “創価の庭” に “人華” を咲かせながら広布 ( 法戦 ) に走るべきと不肖小生も思います 。。。

posted by 石君 at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 広 宣 流 布 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月29日

法華経の教え..


  唯一無二の財産こそ “法華経” と悟れば賢者の証である ... 。







  第十七章  分別功徳品 ( 真の功徳とは )







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  信仰によって得られる無限の宝庫を解く。
 





  ※仏 ( ほとけ )、希有 ( けう ) の法 ( ほう ) を説きたもう 昔より未 ( いま ) だ曾 ( かつ ) て聞かざる所なり 世尊は大力 ( だいりき ) ましまて、寿命量 ( はか ) るべからず、無数 ( むしゅ ) の諸 ( もろもろ ) の仏子 ( ぶっし )、世尊の分別 ( ふんべつ ) して、法利 ( ほうり ) を得 ( う ) る者を説きたもうを聞いて、歓喜身 ( かんぎみ ) に充遍 ( じゅうへん ) す。或 ( あるい ) は不退 ( ふたい ) の地に住し、或は陀羅尼 ( だらに ) を得 ( え )、或は無礙 ( むげ ) の楽説 ( ぎょうけつ )、万億 ( まんのく ) の旋総持 ( せんようじ ) あり。..............


  真の功徳とは

  仏の永遠の生命を説いた 「 寿量品 」  のあとに来るのが 「 分別功徳品 」  である。
  この、「 分別功徳品 」  の前半は 「 従地涌出品 」  の後半と共に 「 寿量品 」  を中心として 「 一品二半 」 ( いっぽんにはん ) といわれ、日蓮大聖人が特に重視し 「 法華経 」  の中で最も重要な内容が説かれたものとした。

  それは、仏とは何かがはっきりわかり、その信仰に基づいて具体的な信仰生活の内容がこの 「 分別功徳品 」  の中で説かれているからである。「 寿量品 」  において仏の生命が不滅であることを知ったわれわれはどのような信仰生活を送ったらよいか、どんな教えを実行したら仏と同じ永遠の生命を得ることができるか、それを解き明かすのが 「 分別功徳品 」  にほかならない。「 分別功徳品 」  は仏の永遠の生命を理解し、「 法華経 」  の教えを信じた人は、どのような功徳が得られるか、を明らかにしたものである。

  ところで、注意しなければならないのは、功徳というとすぐに現世利益 ( げんぜりやく ) のことだと思ってはならない。「 法華経 」  の教えを信じることによって自然にその人の人格は立派となり、顔も信仰からにじみ出た温顔となり、態度も深い信仰に裏打ちされて悠揚迫らざるものになる。このような信仰を獲得した人はおのずと社会の人々からも信頼され、尊敬を受けられ、その結果として、社会的な名誉や物質的な富も得られるようになる。

  現世利益はどこまでも信仰の結果、自然に生じたものであって、信仰の目的であってはならない。

  この 「 分別功徳品 」  に書かれている功徳も現世利益を説くのではなく、信仰によって得られる無限の宝蔵を説くのである。


  人間は目先の利益だけを追求して幸福であるのではない。真の幸福は永遠の仏の生命に自分が生かされていることを自覚することにある。

  「 分別功徳品 」  は 「 法華経 」  の信仰に生きる人たちが、どのようにして真の功徳を受けることができるかを、詳細に具体的に説いたものである。






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仏教は人間を超えた思想を説く

 

  人が菩薩になるとは..........( 清浄の法輪 )

  「 寿量品 」  で説かれた仏の永遠の生命がわかった衆生には、多くの功徳があることを経文は明らかにする。仏は一同の代表である弥勒菩薩に対して、仏の寿命の永遠不滅を信じる者の功徳をお説きになる。彌勒菩薩は我々の代表者であるから、仏は弥勒菩薩にその功徳をお示しになる。

  その功徳の第一は 「 無生法忍 」 ( むしょうほうにん ) ということが理解できるということである。仏の寿命が永遠であることを聞いた衆生は 「 無生法忍 」  を得ることができる。と仏は弥勒菩薩に言われた。「 無生法忍 」  の無生とは、「 無生死 」  であり、生死を離れること、その教えを守って続かせてゆくことが 「 無生法忍 」 である。まず、衆生は仏の生命が無限であることを聞いて、生死というのは変化のことである。人生の変化などは大いなる生命から見れば大したことはない。成功しても失敗しても、出世しても貧乏になっても、それは単なる変化に過ぎない。しかるに、仏の生命が不滅であることがわかると、生死の世界を越えようとする意志がうまれる

  永遠の仏に自分は生かされているのだ、と信じることによってこの世の生死、変化の世界に執着していることから離れようという気持ちになれる。人生の利害得失を離れる気持ちを起こすには、永遠の生命を信じなければならない。この短い人生の喜怒哀楽など、永遠の生命から見れば、まったく取るに足らないことになる。こう考えれば、生死、人生の変化にとらわれない心が生じる。しかもその気持ちを絶えず持ち続けようという気になる。それが 「 無生法忍 」  ということである。

  仏の永遠の生命がわかると、次に 「 聞持陀羅尼品 ( もんじだらにぼん ) 」 を得ることができる。「 陀羅尼 」 とは、善を行い、悪を止める力のことで 「 総持 」 ( そうじ ) と訳す。仏の永遠の生命を信じることは自分の永遠の生命を信じることにもなる。それによって現在の自分は過去の業の結果としてあることがよくわかり、因縁によってこの生を受けて現在に自分が存在していることに、無限の感謝を持つことができるようになる。さらに未来を考えると現在のこの人生がどんなに大切であり、重要であるかがわかってくる。

  次に、たくさんの菩薩が 「 楽説無礙弁財 ( ぎょうせつむげべんざい ) 」 を得ると説かれる。「 楽説 」 の 「 楽 」  とは楽しむことではなく 「 ねがう 」  ことである。「 無礙 」  というのは障りのないことである。「 楽説無礙弁財 」  とは自由自在に妨げなく教えを説くことをねがうことである。無礙に説くことができる条件では、それは永遠の生命である仏を信じその仏に行かされている自分をしっかりと確信していなければならない。「 楽説無礙弁財 」  は仏の永遠の生命を信じる者の大いなる功徳の一つであることがわかるではないか。

  次には数えきれないほどの菩薩が無量の 「 旋陀羅尼 ( せんだらに ) 」  という功徳を得ることができた。「 陀羅尼 」  とは、先に述べたように善を行い悪を止める力であるが、これに 「 旋 」  という字がつく。「 旋 」  とはめぐらすことで、この旋陀羅尼の力を自分だけで享受しないで、この教えを人から人へ説きめぐらしていくことが 「 旋陀羅尼 」  の教えである。

  さらに数限りない菩薩が 「 能 ( よ ) く不退 ( ふたい ) の法輪 ( ほうりん ) を転 ( てん ) ず 」  ること 「 法輪 」  というのは教えを弘めることである。車の輪が無限に回っていくように教えを無限に弘めることである。しかもそのためには 「 不退 」  の決意を持たなくてはならない。どんなことがあっても教えを弘めることを中止してはならない

  不退の法輪を説くことができるようになった菩薩は次に 「 能 ( よ ) く清浄の法輪を転ず 」  ることができる 「 清浄 」  とは報酬を求めないで教えを弘めることである。有形的にも、無形的にも、報酬を期待して教えを弘めるのはこれに反する。

  何一つ報酬を求めないとは、人間が理想を考える極限の思想である。仏教は人間を超えた思想を説く。だから、これは人間ではなくて菩薩の教えとなる。清浄の法輪は菩薩でなけれは絶対に実行し得ない。逆に清浄な法輪をとくことができるようになったとき、人は人でなくして菩薩になる






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行住坐臥(ぎょうじゅうざが)..................いかなる環境にも支配されない




  不退の地に生きよ

  仏の永遠の命を確信することによって、多くの菩薩が功徳を得ることをお説きになると、虚空 ( こくう ) から、大きな白い蓮の花が降ってきた。獅子座の上に座っているたくさんの仏の上や、七宝の塔の中におられる釈迦牟尼仏や、久しい間滅度 ( めつど ) していたが教えの真実を証明するために出現された多宝仏の上にも、さらには一切の菩薩や比丘、比丘尼、優婆塞 ( うばそく=在家の男の信者 ) 優婆夷 ( うばい=在家の女の信者 ) の上にも花の雨が降ったのであった。

  さらに天から香りのよい栴檀 ( せんだん ) や沈水香 ( じんすいこう ) の雨が降り、虚空の中では天の太鼓が妙なる調べを鳴り響かせていた。花も香りも太鼓も仏の教えをほめたたえるためのものである。また、いろいろな天の衣を雨ふらし、瓔珞 ( ようらく )、真珠、摩尼珠 ( まにしゅ )、如意珠 ( にょいしゅ ) のような宝石をたらし、立派な香炉 ( こうろ ) に価もつけられないほどの立派な香を焚いて仏を供養した。

  一人一人の仏の上には、菩薩が幡 ( はた ) や天蓋 ( てんがい ) をもってさしかけ、これが梵天にまでずっとつづいていた。菩薩たちは美しい声で仏の徳をたたえる歌を歌っていた。そのとき、彌勒菩薩は立ち上がって右の肩を肌ぬいで仏に向かって合掌して申し上げた。

  「 世尊は仏の生命が無限であり、一切衆生の生命もまた仏の生命と同じく無限であることをお説きくださいました。このような教えは昔から今まで聴いたこともありません。この教えによって、仏には一切衆生を救う大いなる力があり、またその寿命が無量であることを知りました。それによって我々衆生は、世尊がわかりよくお説きくだっさた法の利益をこの自分の身にひきあて、いつかは仏の境界 ( きょうがい ) になれることがわかり、身にあふれるような喜びでいっぱいです。 」  と。

  ここからの弥勒菩薩がお説きになる偈文は、前に説かれた長行の部分とほとんど同じ内容であるが、前の長行は世尊が説かれたのに対して、この偈文は彌勒が自分で理解した教えを語ったのである。彌勒は仏の永遠の生命を信じる者には、多くの功徳があることを身をもって確信し、承認したのであった。

  或 ( あるい ) は不退 ( ふたい ) の地 ( じ ) に住 ( じゅう ) し、或 ( あるい ) は陀羅尼 ( だらに ) を得 ( え )、或 ( あるい ) は無礙 ( むげ ) の楽説 ( ぎょうせつ )、万憶 ( まんおく ) の旋総持 ( せんそうじ ) あり。

  と、前に述べた功徳をくりかえしているのであるが、若干表現が異なるところもある。たとえば、「 不退の地に住し 」  とあるのは、長行では 「 無生法忍 」  とあったのと同じ意味である。不退の地とは、、修行人生のどんな逆境にあっても、心を動かすこともなく、修行をやめないで続けることである。

  「 華厳経 」  には、「 結跏趺坐 ( けっかふざ ) しては願う ( ねごう ) べし。善根堅固 ( ぜんこんけんご ) にして不動地 ( ふどうじ ) を得 ( え ) んことを 」  と説く。座禅を組み、善行を修することによって不動地、すなわち不退の地に住することができる。

  また同じく、「 足を下 ( おろ ) して住むときは願うべし、解脱 ( げだつ ) を得て不動に安住せんことを 」  と説く。足を一歩一歩下すときは、何としても解脱して不動の地に安住することを願え、というのである。

  日常生活の行住坐臥 ( ぎょうじゅうざが )、いかなることをするときも、不動の地に住することを願うということは、いかなる環境にも支配されないことである。

  仏法を思い、成仏を願い、解脱を志しているものは、周りの環境にひきずられて退失することはない。






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真の仏を知ることは、いかに大事か。



  無上の心とは

  「 寿量品 」  を中心とした 「 法華経 」  で、もっとも重要な 「 一品二半 」 ( いっぽんにはん ) を説く 「 分別功徳品 」 の経文の最後は、次の言葉で結ばれている。

  仏寿 ( ぶつじゅ ) の無量なることを聞いて、一切 ( いっさい )、皆 ( み ) な歓喜 ( かんぎ ) す。仏の御名 ( みな )、十方 ( じゅっぽう ) に聞こえて、広く衆生を饒益 ( にょうやく ) したもう、一切善根 ( いっさいぜんこん ) を具 ( ぐ ) して以 ( も ) って無上の心を助 ( たす ) く。

  この経文は短いが、「 分別功徳品 」  の精神を見事に簡潔に描いている。
  仏の生命が無限であることを聞いて、すべての人々は大いなる喜びに満たされた。仏の御名は十方に聞こえて、大ぜいの人々を救い、功徳を与えてくださる。われわれは善根を積むことによって、「 無上の心 」  の実現を助けてゆく。

  ここでいちばん大切なのは 「 無上の心 」  である。無上の心とは、悟りを求める心、仏の境涯に到達することを願う心である。この無上の心を体験するために、あらゆる善根を積んでゆかなければならないのである。ここまでで、一品二半といわれる 「 法華経 」  の核心部分が終わることになる。「 法華経 」  の構成は序分 ( じょぶん )、正宗分 ( しょうしゅうぶん )、流通分 ( るずうぶん )、の三部分から成るわけであり、「 方便品 」  から 「 分別功徳品 」  のここまでが正宗分にあたり、これ以下は流通分になる。

  正宗分というのはお経の中で一番大切なところであり、さらにその核心となるのが、「 寿量品 」  を中心とする一品二半である。流通分はこの教えを世の中に弘めればどのような功徳があるかを説いたところである。

  正宗分だけであれば、お経の中心思想がわかるので、それで十分でないかと考えられるが、それだけでは不十分なのである。そこで、流通分 ( るずうぶん ) では正しい信仰をもてばどんな結果が現れるか、正しい信仰を持つにはどうしたらよいか、という極めて具体的な実践法が説かれることになる。

  そのとき、仏は弥勒菩薩にお告げになった。「 あらゆる衆生が仏の寿命が無限であることを聞いて、それを信じ理解するならば、そこから得られる功徳は無量である 」  とおおせになり、さらにつづいてそのことを詳しくお説きになった。

  まず、仏の境涯 ( きょうがい ) に到達したいと思って長い間に五波羅蜜 ( ごはらみつ ) を行じたらどうなるか。五波羅蜜とは般若波羅蜜 ( はんにゃはやみつ ) を除いた檀波羅蜜 ( だんはらみつ ) と尸羅波羅蜜 ( しらはらみつ ) と羼提波羅蜜 ( せんだいはらみつ ) と 毘梨耶波羅蜜 ( びりやはらみつ ) と禅波羅蜜 ( ぜんはらみつ ) である。波羅蜜とは梵語のパーラーミターの音訳で 「 到彼岸 」 ( とうひがん ) と訳す。「 到彼岸 」 とは悟りの世界に到達するということである。

  五波羅蜜の、
1檀(だん)波羅蜜とは布施のことであり、檀とは檀那(旦那)を略した言葉で人にものを与えることである。布施をすることによって悟りの境地に到達しようというのが檀波羅蜜である。

2尸羅(しら)波羅蜜の尸羅とは清涼(しょうりょう)のことで、持戒のことである。戒律を正しく保つことによって、清涼の境地を得ることができる。

3羼提(せんだい)波羅蜜とは忍辱(にんにく)のことである。どんなことがあっても腹を立てないのが忍辱である。簡単なようでなかなか実行できないのが忍辱である。

4毘梨耶(びりや)波羅蜜とは、精進のことである。精進努力が仏道修行の上でどんなに大切であるかはお経でも説いているし歴史の祖師たちが常に戒めていることである。

5禅(ぜん)波羅蜜とは禅定のことであり自分の心を静めて散乱させないこと。

  以上の布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五つの修行は結局のところ般若 ( はんにゃ ) 波羅蜜、すなわち正しい智慧を得るためにほかならない

  この五つの波羅蜜はどれ一つをとってもなかなか実行できないものばかりであるが、この五つの波羅蜜を行ずる功徳は仏の生命が無限であるという本当の仏を知ることの功徳に比べれば百分の一、千分の一、百千万憶分の一にも及ばないと説く。五つの波羅蜜を行じることと、真の仏を知ることとは価値が全く異なるということを、はっきりとここに名言しているのである。







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功徳のなかでもっとも重要なのは、¨教えを弘める¨ 。
 

  大いなる功徳とは

  この 「 分別功徳品 」  を読むに当たって、昔から四信五品 ( ししんごほん ) ということを説く。詳しくは 「 在世の四信 」  と 「 末後の五品 」  ということである。「 在世の四信 」  とは仏がこの世におられるとき、仏の教えをじかに聞いて信じる信じ方を、浅い信仰から深い信仰の順番に四つにわたって説いたものである。それは、(一)一念信解 ( いちねんしんげ )、(二)略解言趣 ( りゃくげごんしゅ )、(三)広為他説 ( こういたせつ )、(四)深信観成 ( じんしんかんじょう )、である。

(一)一念信解(いちねんしんげ)とは、「法華経」 のなかの一句でも一語でも少しでも理解でき、信じられるようになること、一日の間、たった一分間でもよいから、それを信じることが大切である。まず初心者はここから入らなければならない
(二)略解言趣(りゃくげごんしゅ)とは、ほぼその言趣(ごんしゅ)仏のお説きになる意味が理解できてくることである。お経の全体の趣旨がだんだん理解できるようになることである。
(三)広為他説(こういたせつ)とは、広く他人のために説くことである。自分がある程度わかってきたならば、その喜びを他人に分かち与えることが何よりも大切である。
(四)深信観成(じんしんかんじょう)とは、深く信じて、正しい見方、考え方が完成することである。ちょっとぐらい経文を読んでもなかなか深くはわからない。何度も何度も読み返し、自分の信心と年齢が深まるにつれて、しだいにお経に対する見方が定まってくるものである。このお経に対する考え方がしっかりしてくるのが「観成」(かんじょう)である。

  仏のおられない末世 ( まつせ ) には、残された経典によって修行するしかない。その方法を説いたのが 「 末後 ( まつご ) の五品 」  である。それは、(一)初随喜 ( しょずいき )、(二)読誦 ( どくじゅ )、(三)説法 ( せっぽう )、(四)兼行六度 ( けんぎょうろくど )、(五)正行六度 ( しょうぎょうろくど ) である。

(一)初随喜(しょずいき)とは、お経を読んでいると深い喜びを感じてくることである。
(二)読誦(どくじゅ)とは、ただ一心にお経を読むことである。自己の全存在をお経に帰入(きにゅう)させて読むのが真の読誦である。
(三)説法(せっぽう)とは、教えを人に対して説くことである。単に口先だけで説くのではない。信心の喜びにあふれた顔で説き、全身で説き、行いで説く。
(四)兼行六度(けんぎょうろくど)とは、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)の教えを、できるだけ努力して一つでも行えるように努めることことである。
(五)正行六度(しょうぎょうろくど)とは、兼行六度をしだいに実行し深めてゆけば、いかなる時、いかなる場所においても、この六つの修行を行うことができるようになることである。

  初めに説いた 「 在世の四信 」  でも、後の 「 末後の五品 」  でも、だんだんと教えを信じ、それを行なってゆくことを順序よく説いたものである。「 分別功徳品 」  の経文の最後の段は、「 法華経 」  を弘めさえすれば、別に仏のために塔を建立したりする必要はないことを説く

  七宝の塔を建て、僧坊を造り、衆僧を供養しないでも、「 法華経 」  の経巻を供養すればよいのである。普通には仏塔を建てたりするほうが、功徳が大きいと考えやすいが、経文を供養することは、それらと同じほどの大いなる功徳があるという。功徳のなかでもっとも重要なのは、¨教えを弘める¨  ということである。

  分別功徳品はこれでお終いです!次回から、第十八章、随喜功徳品 ( ずいきくどくほん ) に入ります
 ... (転載記事) ... 。













  昭和2073日、45歳の戸田城聖は、東京・中野の刑務所出獄する。戸田城聖が見たものとは、空襲で焼かれた無残な焦土であり、誤れる宗教・思想に導かれた悲惨国民姿であった。戸田は死身弘法決意で、日の空白もなく、祈り行動するのであった。やがて日本敗戦。この失望の時代に、
   創価教育学会  の名称を 
   創価学会  に変更。壊滅した学会の再建に乗り出す。やがて、彼のもとに四散していた学会員が集い始める。昭和20年1118日、獄中殉教した・牧口常三郎先生の1周忌法要が行われた。戸田城聖は、恩師への誓いを述べた。
   広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。先生の真の弟子として、立派に妙法流布にこの捧げます  彼は、焦土の国土に一人立ち千里踏み出した。驚くべきスピード事業拡大させながら、広宣流布大願成就するために、ひたすら人材育成注力する戸田城聖であった ... ( 人間革命より転載 )
 ... 。




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  145年前だったか!?  本当はこれだけが全てなんだよな!  と、地元の先輩が零した、無論信心であり広布の “事” である  俺も30年掛かったからな  と自らの事業の成功軌跡を振り返りながらの一言だった。生き方は人間の数だけ存在する何が良くて何が悪いかは其々だろうだけどこれだけは言える日蓮仏法帰依するか、しないかでは同じ “まる (  ) はだか”  でも南極にいるのとワイキキに居る位のがあるのだと不肖小生も思います 。。。



  
posted by 石君 at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 広 宣 流 布 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする